|
カテゴリ:瞳
世田谷パブリックシアターで公演中の大駱駝艦・麿赤兒公演『シンフォニー・M』
大駱駝艦といえば、白塗りをしたパフォーマーたちによる舞踊というぐらいの知識しか持っていない自分にとっては、未知なる分野だったのだが、折角機会を頂いたので鑑賞することにした 麿赤兒の肉体が奏でる交響曲『シンフォニー・M』 麿にとってのシンフォニーとは、今なお宇宙を巡っていると言われるビッグバンの残響である ロマン、絶望、栄光、無残、恍惚、虚無、そのすべてを吸収したブラックホールたる麿体は、時に弦楽器として、管楽器として、打楽器として存在する またある時には肉体の指揮者として、歓喜と絶望のシンフォニーを奏でるべくタクトを振る (公演のストーリーより) 静まり返った劇場… その静けさは不気味なほどで、観客の咳、唾を飲み込む音、グーッとお腹が鳴る音が、あちらこちらから自分の耳元に届いてくる そんなどこか張り詰めたような静寂のなか、舞台上では、顔を真っ白に塗りたくり、深い緑色のベルベットのロングドレスを身にまとった麿氏が、ただただ、身体をゆらゆらとくゆらしている セリフもなければ、音楽もない 静けさのなかに身を置いているだけでも変な緊張感を持っているのに、舞台上では到底理解することのできない世界観が繰り広げられている 自分の席の傍の御婦人からは、咽かえるような甘ったるい香水の匂いが鼻をつく 残酷なまでの苦痛な時の流れが、ゆるやかに過ぎていく 自分のなかで“この作品はどうやって楽しむべきものなのか?”と、何かを模索しているとき、静かにクラシックの音楽が心地よい子守唄のように劇場内に響きわたった このときほど、音のありがたみを感じたことはなかった 普段は当たり前のように音を耳にしているが、音が無いということは、これほどまで心を不安にさせるものなのだろうか そして、音はこれほどまでに力強いメッセージ性を持っているものなのか それまでは退屈で仕方なかった作品も、シンフォニーの調べによって世界観が浄化されたような気がする 演者の方々の訴えたい何かを自分のなかで消化できなくても、徐々に怪しくも妖しい世界観に引き摺りこまれていった 休憩なしの1時間30分の上演作品は、5つの場面で構成されている 麿氏を中心として、大駱駝艦のメンバーの方々は、皆全身を真っ白に塗っているという異様な出で立ち ときに意味不明な言葉を発しながらの、抽象的なパフォーマンスを繰り広げる様は、どこか戦慄すら覚える どう考えても、自分には理解できない 心底楽しめない 他の観客の方たちは、何を思い何を感じているのだろうか? なんだか一人だけ置いてけぼりをくったまま、結局最後を迎えてしまった 正直言って、訳がわからない 頭の中には?マークが沢山浮いている けれども、不思議な魅力があることは確か 現に、あれほど苦痛な時間だと思っていたにも係わらず、観終わった今、なんともいえない余韻を引き摺り、また機会があったら見たいな…と思う自分がそこにいるのだから 大駱駝艦・麿赤兒公演 『シンフォニー・M』 世田谷パブリックシアター 2月19日(木)~22日(日)まで 出演/麿赤兒/大駱駝艦 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年09月19日 10時31分49秒
[瞳] カテゴリの最新記事
|