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カテゴリ:かっこつけメディア論
新聞再生 共同通信社の畑仲哲雄さんの著書「新聞再生~コミュニティーからの挑戦」。 最近、知り合いが本を出版されることが多くとてもうれしい限りです。 言いっ放しで終わることなく、こうしてカタチにすることで「伝える役割」を果たそうとされている姿は素晴らしいなと思います。私の場合はひとりでカタチにするスキルはないため、多くの人とユニットすることで、使命を全うしたいものだと考えています。 さて、本の内容はといいますと、私にとってはとても身近なものとして入ってきました。畑仲さんの追いかけていたものが、ここ数年私が知りたいと思っていたことを教えてくれるものがあり、「懐かしい」という印象も受けました。新聞とは何か、新聞という「場」の意味、地域コミュニティーってなんだろう、地域での新聞の存在とは、などなど。 分かっていそうで分かっていないこと。そんなことを地域の新聞を創り出そうとする「人」の生の声からだけでも、伝わってくるものがあるはずだと感じました。 新聞という媒体だけではなく、新聞社のようなものの機能がなくなったら誰が困るのか、ということの認識をより多くの人と議論したいと思っている私としては、こうした本を議論の素材として大事にしていきたいと思います。 最後に書かれている『「民主主義は人々の熟慮(熟議)と討議に基づくべきであり、熟議は民主的に行なわなければならない」とする「熟議の民主制」と訳されるデリベラティブ・デモクラシーの思想を端的に現す言葉だ。社会空間としての新聞社に読者=市民の参加を求めるということは、すなわち熟議への参加を求めることにほかならない。そうすることで<新聞>の構成要素のひとつである新聞社や新聞記者は、じぶんたちの存在理由やその正統性を確かめることができるのである。』としめています。 私が最近読んでいる「いま哲学とはなにか」という本にちょうど「市民の概念」という部分に市民とは何かをアリストテレスは「本当の意味で市民と言える者は、判決と支配に参加することによって規定される」と書かれています。デモクラシーが成立するためには、その国家を構成している人々が、人間の倫理の原理である正義について、また、その国家の構造、運営の仕方、その進むべき理想などについて明確な認識をもち、その認識に基づいて行為し、変革し、国家を動かしていく責任能力をもっていなければならないのである。そのような市民が成立するためには、公共性理性を育成する教育が決定的に重要であることは、言うまでもない。とありました。 言葉足らずな私なのでひとりわかった気分になっており、どうもすみません。しかし、なんとなく横浜の新聞博物館にいった時の「新聞がなかった頃から新聞が出来上がっていった明治時期のこと」を知ったり、今日もやっていた坂の上の雲のスペシャルドラマ紹介で「きちんとした国家がなかった頃から国家が出来上がっていった明治時代のこと」を見ているとわかるような気がするのです。 国家や市民や民主主義が成り立つには、多くの人が議論し合える場所は必要で、最低限の情報を共有し合える教育がさらに大事になってくるのでしょう。そうした議論の場であり、教育の場として、新聞や新聞社、さらには社員のひとりひとりが一市民として、地域の使命と役割を果たしていきたいと考えさせられた本でした。畑仲さんをはじめとする人々のエールを無にしない活動を与えられた仕事以上に実践していこうぜいっ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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(2009年01月20日 17時48分31秒)
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