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カテゴリ:明治
写真1 碑の前にある家の表札には「高野」の姓が見えます。 写真2 坂の途中に岸田劉生が描いた切通坂であるとの碑があります。 写真3 春の小川の水源は、このお屋敷の庭の池でした。 お気に召したら 人気blogランキングへ 「春の小川はさらさら流る」で始まる小学校唱歌「春の小川」は、明治の末から長いこと歌い続けられている歌です。小学校では歌った筈ですから、皆知っています。この歌は、明治45年(1912)に高野辰之が作詞し、岡野貞一が作曲したものです。 代々木駅から西へ10分余り歩いた代々木三丁目に、作詞者、高野辰之の住居跡があります。道端に住居跡を示す木製の碑が立ててあります。(写真1) ここを通り過ぎると、道は新宿十二社通と交差しますが、それをよぎって更に進むと、切通坂に至ります。この切通坂は、岸田劉生が大正4年(1915)に「切通しの写生」(重要文化財)という風景画に描いた坂です。(写真2) 横山大観、下村観山とともに明治期の日本画の革新運動に参加した菱田春草も、明治41年(1908)この地に移り住み、雑木林を題材にした代表作「落葉」を描いています。「菱田春草終焉の地」という碑が高野辰之の碑の近くにあります。銀座生まれで都心で生活していた岸田劉生が、菱田春草終焉の地を訪れたとき偶然見つけた新開地の風景が、「切通しの写生」のモチーフになったのでしょう。 鈴木博之教授は著書「東京の履歴書」で、「明治政府は、明治初年に”桑茶令”を発令して桑と茶の栽培に取りかかり、首都を農地化したので、武家屋敷の見事な庭園の多くが失われた」と述べています。ということは、代々木のこの一帯は、雑木林の間に桑畑や茶畑が散在していた農村だったのです。 渋谷の松濤は今は高級住宅地ですが、当時はお茶の産地でした。「松濤」という銘柄のお茶は高級品だったと聞きました。岸田劉生が描いた切通しは、その茶畑や桑畑を住宅地に開発していた現場だったのです。「春の小川」の作詞者である高野辰之は、郊外に開発された住宅地帯に住んでいたのです。 さて、高野辰之が歌った春の小川は何処にあったのでしょうか? それは切通坂の二筋北側の道端にありました。しかし今は、小川は暗渠となり、小川の水源であった湧水の池は、マンションの下に埋められました。マンションが建設される前に、水源であった池を幸い写真に撮っていましたのでご覧に入れます。お屋敷の庭の窪みがその池です。(写真3) 武蔵野台地が東京湾に向けて八つ手の葉のような形で分岐して伸びているのが、東京の地形です。ですから東京は坂の多い街です。そして坂の下には武蔵野台地の地下水脈が所々で顔を出しています。春の小川の水源も武蔵野段丘の下を流れる水脈がひょっこり顔を出した泉の一つだったのです。 「岸のすみれやれんげの花に、にほひめでたく、色うつくしく、咲けよ咲けよと、ささやく如く」流れていた春の小川は、今は影も形もありません。 (以上) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.03.22 18:11:28
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