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隅田川の川向こうに江戸が拡大したのは、明暦の大火(1657)で焼け出されたことが原因だと申しましたが、そのとき神田川や日本橋川の沿岸にあった物資の貯蔵所の大半も消失したので、材木の置場の木場は日本橋から深川に引っ越すことになりました。
その引越し先は、永代島辺りの現在の佐賀町、福住町、深川町に散在していましたが、その後、材木置場は幕府の御用地の猿江に集約されます。そこは横十間川沿いの「猿江材木蔵」と言われたところで、火災の多い江戸では木材需要は旺盛でしたから、この「猿江材木蔵」には関東だけでなく紀州などから大量に木材が運び込まれました。 江戸の下町は神田の職人や日本橋の商人の活躍で繁栄しましたが、深川は木場の筏師、川並、木挽きたちの活躍で繁栄したところです。その結果、日本橋から引っ越してきた「猿江材木蔵」は、深川の経済力を急速に高めることになりました。 木材置場が隅田川の向こう側に越すことに伴い、水上輸送に欠かせない堀割の整備が更に進みます。東西に流れる水路としては竪川、仙台堀が、南北に流れる水路としては大横川、横十間川の整備が進みました。 「深川は芥と泥で造られた」と悪口を言われていましたが、この堀割の整備で深川は縦横に水路の走る美しい水郷に変身するのです。その様子は、江戸時代に刊行された「江戸名所図会」や広重の「名所江戸百景」で想像することが出来ます。(写真1) 写真1 広重の「名所江戸百景」深川木場 明治時代になっても、この「猿江材木蔵」は、全国の国有林から伐り出された木材の貯木場として使用されていましたが、昭和に入ると、猿江材木蔵も狭隘となり、仙台堀沿いの広い「木場」に移転しました。「猿江材木蔵」の跡地は、今は猿江恩賜公園となっています。(写真2) 昭和の「木場」には、製材や加工の木材関連企業が多数立地し、やがて深川は木材産業のメッカになります。しかしその繁栄の期間は短かく終わります。戦後、下町の工場が大量の地下水を汲み上げたため地盤沈下が急速に進んで、水路の橋の橋桁が低くなり、運河や堀割での材木輸送に支障を来すことになったからです。 そこで、再び「木場」は昭和47年(1969)から昭和56年にかけて海側の「新木場」に移転することになりました。「元木場」から「木場」へ、更に「木場」から「新木場」へと二度目の移転は、戦後の東京の発展により、都市部へ住宅用木材の需要が旺盛になったためです。しかも、国内材だけでは賄いきれなくなり、米材、北洋材、南洋材の輸入材が増えてきたので、海に面した木材貯蔵所が必要になったためです。「木場」の跡地は、今は広い木場公園になっています。(写真3、4) 新木場は東京港に接した広大な海上貯木場でした。海を仕切った広大な貯木場と、筏を曳航する船と、丸太を引き上げる起重機と、大型のトラックが走り回る巨大な木材工業団地が誕生しました。しかし新木場の命は更に短く、短期間の内に衰退に向かいました。原因は、原木の輸出国が自国で製材・加工するようになり、原木が輸入されなくなったからです。 新木場の水面には海外からの輸入木材が沢山浮かんでいた時代は短く、新木場の木材団地で製材加工する時代も短かったのですが、当時の様子を写真でご覧に入れます。(写真5、6) 木場公園の近くにある木場親水公園には水路が設けてあり、そこでは伝統的な木場の角乗競技が行われるところです。角乗技術は、川並たちが貯木場の丸太材を並べ替え、整理する作業の中で生まれたものです。深川の経済を支えた、江戸時代からの木場の人たちの歴史は、木場親水公園の角乗競技に残されるだけになりました。(写真7、8) (以上) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.11.15 18:58:30
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