|
カテゴリ:カテゴリ未分類
江戸時代、商業の中心地は日本橋であり、銀座はその名が示す通り銀貨鋳造職人の街でした。明治の初めまで銀座は江戸の繁華街では寂しい場末でした。 江戸時代の街の賑やかさは、堀に架かっている橋幅の広さで分かるそうですが、日本橋には立派な橋が架かっていましたが、日本橋の隣の京橋は幅三間の橋でしたし、更に西の新橋は幅二間に満たない橋でした。 銀座に住んでいる町人達も、貨幣職人のほか、小商人たちであり、少し裕福な人たちは、京橋から日本橋へかけての地域に住んでいました。今は銀座の中心地になっている四丁目界隈は場末の広場でした。 東京は明治のはじめに大火に見舞われ、江戸時代からの街は消えました。明治政府は銀座通りを火災に強い街にしようと、道路幅を拡幅し、道路に面する街並みをレンガ造りの二階建てにして、江戸の町並みの近代化を図りました。当時のレンガ造りの遺構の一部が記念碑として銀座八丁目の金春通りに保存されています。 しかし、レンガ造りの街並みは、気候風土の違う日本では不向きで評判が悪く、関東大震災で大半が壊れてしまい、再び造られませんでした。その代わりにコンクリート造りの西洋風のビルが出現します。 松坂屋(大正13年1924)と松屋(大正14年1925)が出店し、銀座四丁目角に銀座三越店(昭和5年1930)が出店します。三越出店に続いて、服部時計店が銀座和光本館(昭和7年1932)を立てます。この建物は銀座のシンボル的存在になります。こうして銀座街は高級商店街の街として全国に知られるようになります。同じ頃には銀座には劇場、映画館、カフェー、バーなど歓楽街としても発展します。 新しく建つ建築物は、高さと面(つら)を揃えたので、街路全体の見栄えは良くなりました。建ち並ぶビルの前に欧米風の近代的な歩道が造られました。車道と分離された歩道には街路樹が植えられました。こうして現在の銀座の街の原型は、関東大震災の後、昭和の初期に形作られたのです。 銀座は、当時から時代の先端を行く、西欧風のハイカラな空気に満ちていました。更に、明治5年(1872)、汐留新橋と横浜の間に鉄道が開通すると、東京の西の玄関は新橋駅になりましたから、銀座4丁目から新橋にかけて南の地域も急速に発展していきます。 江戸時代には街の場末であった銀座は、昭和の初期に日本一の繁華街となり、更なる発展のスタートを切りました。
![]() 写真1 銀座煉瓦街遺構の碑のある場所 ![]() 人気ブログランキングへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.06.18 18:27:32
コメント(0) | コメントを書く |