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テーマ:韓国!(16993)
カテゴリ:韓国
NHKのテレビで「ことばおじさんのナットク日本語塾」という番組がある。毎回日本語のある言葉を題材に、その意味や使い方を解説するといった内容だ。
先日偶さかにその番組を見ていたら、「感謝の意で使われる『すみません』」についてやっていた。 日本語を習う外国人は「すみません」は「謝罪」の意味で習うだろうから、正反対の感謝の場面でも使われるのは、確かに解りづらい。 ~~~~~~~~~~┌(・。・)┘♪└(・。・)┐♪ 番組では確か、この場合の「すむ」は「済む」ではなくて「澄む」であり、相手に迷惑を掛けて心が穏やかでない(澄まない)、という事から出た言葉・・・という柳田國男の説を紹介していた。ごもっとも。 しかし、「いつでも相手の事を気遣う心。日本人ならではの言葉ですねぇ」と気の利いた(つもりの)コメントは、ちょっといただけない。これではまるで、「何でもカンでもウリナラマンセー」の某K国人と同じだ(爆) (~-_-)~ ~(-_-~) というのも、感謝の意味の「すみません」は韓国語にもちゃんとあるからだ。 「罪悚する(チェソン ハダ)」というこの言葉は、教科書には「ごめんなさい」の意で書かれているが、語源を直訳すれば「恐縮です」とか「恐れ入ります」だから、日本語の「すみません」同様、謙譲的用法で感謝の場面でも使われる。 但し若干フォーマルな場面に限られるし、あらゆる場面で「すみません」を連発する日本に比べれば、確かに耳にする頻度は少ない。その意味では「すみませんは日本的」と言えるやも知れぬ。 └(・。・)┐♪ ところで、一体「日本的」であったり、「日本ならでは」であったりする事が、どれほど重要な事なのか。それに対して何らかの「優越感」や、況してや「誇り」を感ずる人が居るのだろうか? 同様に「我が民族の誇り」と言った様な文句は、こちらの新聞などでよく目にする言葉だが、一体「韓国人」である事や「朝鮮民族」である事が、それ程価値があるものだろうか? 個人的には、「日本人」であったり「朝鮮民族」であったりする、言わば「資格」に関しては、何ら価値は無いと考える。精神的拠り所を仮想権威に求めたがるのは、人として本質的欲求なのかも知れないが、自分が「日本人」である事は言わば偶然に得た資格だから、誇ってみても仕様が無い。 これが例えば、「血の滲むような努力をして(一体どんな?笑)米国の市民権を手に入れた」と言う人がもし居れば、彼は米国市民としての誇りを感ずるだろうが、生まれた時から日本人である僕は、その事に対して特に価値を置く理由を思いつかない。 尤も、僕は今韓国に住んでいるから、「在韓日本人」と言う「希少的」価値はあるかも知れない。少なくとも「在日日本人」よりはまだ希少性が高いだろう。 ・・・でも特にメリットは無い(笑) ┌(・。-)┘~♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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