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七代目ちぃのブログ

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全5件 (5件中 1-5件目)

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国内小説

2020.07.15
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カテゴリ:国内小説






「一千一秒物語」
子供によるメルヘンティックな「裸のランチ」といったところか。

「黄漠奇聞」
成り上がり神と崇められる王による無様でほんの少し美しい挑戦の物語。
人の存在の矮小たる事、何たるや。
しかし、だからこそ人は想像力を働かせ、物語を紡ぐのかもしれない。

「チョコレット」
メルヘンティックな逸話。
表題作の中に入っていても可笑しくない物語。

「天体嗜好症」
少年愛の誘い。

「星を売る店」
メルヘンを現実にしてしまおうという試み。

「弥勒」
これが私小説なのか。
それらしいところが無い訳でないが、やはり奇人。

「彼等」
楽しい、遊園地のような話。

「美のはかなさ」
芸術は投げられている。
そうなのだ。

「A感覚とV感覚」
幼少の頃のA感覚を思い出した。
男性に於けるA感覚とはV感覚への憧れという側面が強いのではないか。
V感覚、即ち女性になりたいたいう願望のような気がする。
とすると女性にとってのA感覚とは何だろう。
こちらはもっと純粋な性的興奮か。






最終更新日  2020.07.15 03:53:47
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2019.05.09
カテゴリ:国内小説







「刺青」
処女作。
女の肥料となる男という美しい情景にうっとりする。
やはりSは先天性で、Mは後天性だ。

「少年」
Sでいるという事はMになる準備運動のようなものだ。
始めからただやられるよりも、屈服させようとして負かされる方が振り幅があり劇的だからだ。
屈辱を餌とする為には屈辱を屈辱としなければならない。
屈辱を恋い焦がれてしまってはそれは屈辱と成り得ない。
そういった事は屈辱を屈辱として受けてから、その後に歪んだ形として発現するものであって、そもそも歪みの定義には歪んでいない正常な状態があるのだから、始めから望んでしまっては屈辱は屈辱としての存在価値を証明出来ないだろう。

「幇間」
情けなく可愛らしい幇間と、愉快で醜い周囲の話。
一流の芸人の姿と三流の男性の姿、愉悦と悲哀がある。

「秘密」
一つ秘密を抱えると見知った景色も新鮮に映る。
秘密に耽溺する男は、秘密を愛するという事は秘密を抱く事だけでなく、秘密を暴く事でもあるという事に気付くのだった。

「異端者の悲しみ」
自伝小説。
とても悲しく、愛しい物語。
解ってしまう辛さは甘く、解りたくない辛さは薄ら寒い。
愚か者の物語だが、それでも肯定してやりたい。
愚か者ではあれども、愚かさを知る事にかけては一歩抜きん出ていると。

「二人の稚児」
天台宗は少し傲慢に思える。
それはそれとして、この物語は不思議だ。
どちらの側にもつける書き方がしてある。
結局下界にも天界にも理などというものは無いのではないか。
そもそも存在しない理というものを人が想像力によって生み出しているのか。
はたまた自然に存在しているはずの理が不完全な人の世には無く、であるからして人は理を求めて努力をするのか。

「母を恋うる記」
母を失うとはこういう事なのだろうか。
風化が怖い。
母を失った母はどういう想いで今いるのだろう。
自分が母を失った時、自分は母のようにいられるだろうか。






最終更新日  2019.05.09 03:05:26
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2019.02.02
カテゴリ:国内小説







伝奇小説の鬼才による青春小説。
まさかこの人がこんな作品を書いているとは思わなかった。

激しい受験戦争の時代に、都内有数の進学校で起こる反抗の物語。
将来の為、大学受験の為の高校時代に疑問を持った生徒達が、勉強に一本槍になっている野球エリートを集めてたった一度の試合を試みる。
この時点で良い物語なのだが、ここからの展開がまた優れている。
輝かしい青春の成功体験を描きながら、それでも受験を選ぶ者を描き、そんな息子に一抹の寂しさを覚えつつも背中を押せない父親、そしてそんな彼を責めない主人公達の描写が、物語に奥行きを与えている。
そして何よりも素晴らしいのはそんな彼等に対する他の生徒や教師、街の人々の反応だ。
これは予想外だった。
そこから白眉とも言える美しい最後の一文へと至る。






最終更新日  2019.02.02 07:29:31
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2018.11.28
カテゴリ:国内小説
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日本獣害至上最大の惨事は大正四年十二月に起こった。
本書はその三毛別羆事件を、綿密な取材に基づいて書かれたドキュメンタリーである。
事件が起こったのは、入植者が漸く根付こうとしていた北海道の苫前郡苫前村三毛別(現苫前町三渓)六線沢。
極寒の地で何とか生活を作ろうと苦心している村民に、あまりにも悲惨な出来事が降りかかる。

羆による被害は恐ろしいもので、喉を抉られた子供や、頭髪が毟り取られた頭蓋骨と片脚だけが残された母親等が描かれる。
身重の母親が羆に攻撃される時に「腹、破らんでくれ」と叫び、しかもそれを聞いていたのが奇跡的に難を逃れた十歳の息子だったという場面では、思わず嗚咽が出た。
これがドキュメントだというのだから凄まじい。
さらに羆の探索中に見付けた糞に人間の頭髪が混じっていたり、漸く倒した羆を解体すると胃袋から未消化の頭髪や衣服が出てきたりと、とにかく凄惨だ。
そうした憎き羆を解体して、村人全員で食べる場面が最後に描かれるが、これがまた凄い。
自分達の家族、仲間を喰らってその血肉とした羆を食べるのに当然難色を示す村人達であったが、アイヌの習慣によりそれこそが供養だとして躊躇いながらの晩餐となる。
生命の営みとは何という事であるか。
淡々と描かれていながらにして、凄い迫力だ。
登場人物も魅力的で、役に立たない村の猟師達、威丈高で大勢でいても猟師達と変わらず役に立たない警察がよく描かれている。
唯一の頼みの綱であるが性格に難の有る羆撃ち名人も、何故そういった性格になったのかの理由付けがしっかりされている。
ただのドキュメントに終わらず人間も描かれているのだ。
また当時区長の息子は七歳であったが、本事件を忘れる事無く、犠牲者一人につき十頭の羆を仕留めるという誓いを立て、六十二年かけて百二頭を仕留め熊害慰霊碑を建立したそうである。

ドキュメントである事が俄に信じ難いし、信じたくもないが、これが現実なのである。






最終更新日  2018.11.28 07:25:08
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2018.02.07
カテゴリ:国内小説
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太田光の小説の第二作目。
六年程前になるか、もともと氏が大好きで堪らない私は、完全なるファン心理で処女作である「マボロシの鳥」を購読した。
優しさと悲しさと併せ持った、絶望を思い乍らも希望を失わない暖かい物語だった。
著名人故著者の顔がちらついただの、説明的(ともすれば説教的)に過ぎるだのといった書評を幾つも目にしたが、私はそんな風には思えなかった。
悲劇的な現実を希望の眼差しで見つめる作風は、氏の挙げる愛読書を見れば成る程と思う。
本業である漫才について「悲劇を喜劇にしたい」と語った姿が思い出される。

今作はよりSF的な作風となったが、上記のような作風は変わっていない。
寧ろジャンル的な要素が非常に相性良く氏の作風と絡み合っている。
一見連作集のようでもあるが、読み進めていくとそれぞれの話が繋がっている事が解り、長編小説と言えるのだろう。
物事を豊かな視点で見る事の大切さと、業深くどうしようもない人間の未来の無情さと、それでも確かに在ると信じたい未来への可能性が各物語に詰まっている。

豊という字は曲がった豆と書く。
市場には出せない、俗に醜いとされる形の豆こそが豊かさの象徴なのではないか。
真っ直ぐな豆も有れば曲がった豆もある。
どちらが良くてどちらが悪いのか。
そもそも形の差によって良し悪しが存在するのか。
真っ直ぐな豆と曲がった豆の両方があって豊かさがある。
違っていていいんだ。
違っている事を悪いという世間で、違っているものを違わないという優しい狂気が存在する世間で、違っている事自体に良し悪しは無いとする感性を育んで生きていきたい。
豊かに想像していきたい。






最終更新日  2018.02.07 06:08:55
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