ザビ神父の証言
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風呂はいらんかね マルレの石版画集より(3)確かにワイン樽のようにも見えますね。しかし、当時のパリには、「犬も歩けば酒屋に出会う」の類で。数多くの酒屋や居酒屋がありました。ですから、わざわざ荷車を使っての酒売りは、商売にはならなかったでしょう。水売りは確かにありましたが、これは明日紹介しましょう。樽の中身の原料は確かに水ですが、この樽の中はお湯になっています。そうなんです。タイトルでお分かりの通り、この絵は出前の風呂屋を表しています。一般に西洋人は、日本人のように風呂好きではありません。空気が乾燥していますから、毎日風呂に入ることなど先ずありません。それでも19世紀の20年代ともなると、大金持ちの屋敷には、浴室を備えたお屋敷もチラホラしてきます。奥方ともなれば、多量の水を運ばせて、週に2,3度の入浴を楽しむようになっていました。セーヌの河畔などには、風呂屋も登場し、1830年の記録では、パリ市内に78軒の風呂屋が営業していたことが分かっています。しかし、この時代の中流ブルジョワの家庭における最も一般的な入浴法は、風呂の出前を頼むことでした。といっても事柄の性格上、流し営業は先ずありません。業者は、時間予約を受けて、目的に屋敷を目指すのです。ただし、予約をとる必要がありますから、出前風呂と分かるように、風呂屋に許された鳴らし方で鈴を鳴らしながら、目的地に向かうのです。大八車を重そうに引く、最も下層の業者から、数頭の馬に引かせる最上級の業者までがありました。この樽の内部に竈が取り付けられていて、湯の温度を一定に保つような工夫が施されていたようですが、残念ながら私も実物を見る機会には、恵まれておりません。目的のお宅に着くと、2人の男が脚輪のついた鉄製の枠を持ち込んで、その中にニスを塗った革の風呂桶を設置して固定するのです。次に革袋に入れたお湯を運び込み、客の好む湯かげんにするのです。時間は30分。入浴時間が過ぎると、男たちが戻ってきて、風呂桶を空にして、たたんで持ち帰るのです。料金は、季節と時間によって、幅があり、現在の金額に直すと、およそ1700円程度から4000円までの幅がありました。当然、夏場より冬場が高く、時間で言うと、夕方の5時、6時台がお高くなっていました。舞踏会や観劇に出かける前のおめかしの時間というわけです。アレクサンドル・デュマの人気小説『三銃士 20年後』の冒頭、ダルタニアンが金持ちの未亡人を射止めて引退したポルトスを訪ねたシーンで、ポルトスが入っていた風呂は、まさにこうした出前風呂です。ただし、『三銃士20年後』の舞台は、1848年のフロンドの乱とイギリスにおけるピューリタン革命、チャールズ1世の処刑などが舞台ですから、この時代に出前風呂があるわけがありません。その点、デュマの時代考証は、まるで好い加減で、19世紀の自分の眼前の出来事を、過去の時代に平気ではめ込んでいるのです。なおこの時期には、革製の浴槽の外に、より丈夫な銅製の浴槽と手桶が使われ始めており、30年代になると、革の浴槽は姿を消して行きます。
2009.01.31
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マルレの石版画集より(3) 2人の男が荷車を重そうに引いています。犬までもが協力しているようです。この荷はいったいなんでしょうか。夜、答を明らかにしますが、皆さんどうお考えになりますか。答を募集いたします。背景に見えていますのが、ノートルダム寺院ですから、セーヌの対岸のこの位置はクレーヴ広場(現在の市庁舎広場)のようです。右手に露天商や大道芸人を囲む人影が見えます。さて、答はいったい何と出るでしょう。
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クロニクル 米軍沖縄基地の強化を発表1950(昭和25)年1月31日59年前のこの日のことです。米軍のブラッドレー統合参謀本部議長らが来日。前年10月1日の中華人民共和国の建国を受けて、社会主義封じ込めの最前線を日本に期待することを述べると共に、占領中の沖縄の軍事基地化を推進すると共に、日本全国の米軍基地も強化する旨の声明を発表しました。この年6月には、朝鮮戦争も勃発、米ソのにらみ合いは次第に深まっていきました。そのトバッチリを受けたのが、沖縄の人々でした。このブラッドレー声明を受け、沖縄の米軍基地は拡大に継ぐ拡大を続け、現在にもなお、大きな問題と爪あとを残しているのです。
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富くじこの絵もマルレの石版画集にあるものの1枚です。バルザックの小説には、良く賭博に走る社交界の様子が登場しますが、庶民は国家が財政収入のために企画した「富くじ」に、なけなしの虎の子をかけていました。1824年製作のこの絵より少し後のことになりますが、1827年のパリには、市内163ヶ所に富くじ売り場があり、2,927万9千フランを売り上げ、700万フランの利益を上げていたそうです。パリの除くフランス全土の売り上げは2,207万5千フランだったそうですから、首都パリの売り上げは、前フランスをかなり上回っていたことになります。富くじは毎月5日、15日、25日の3回抽選発表があり、パリでは毎回およそ10万人の人々が富くじに参加していたようです。抽選では90通りの番号の内、当たり番号は5つで、「エクストレ」と呼ばれるうち一つの番号を当てるクジは15倍。二つ当てる「アンプ」は27倍なのに対し、三つ当てる必要のある「テルヌ」は、最も確率が低いことから、何と5200倍の賞金で、射幸心を煽っていたのです。バルザックの小説『ラブイユーズ』は、20年来テルヌを当てることを夢見てきた、デコワン未亡人を主人公とした物語です。マルレのこの絵は、富くじ売り場の外に張り出された、当たりくじの掲示板を見る人々を描いています。右端の2人の人足と1人の女中の3人組は、女中が手にする富くじを3人で金を出し合って買ったのでしょう。3人の深刻な顔つきと厳しい目つきから、外れクジを諦めきれずに再度チェックしている様子が窺えます。帽子箱を提げている防止女工は、意気消沈した貧しそうな老人の札を覗いています。買い物籠を下げた料理番の女性、風呂敷包みを抱えた太っちょの書記、足の悪い乞食などが、富くじの参加者として描かれています。入口に立って、冷ややかに様子を見ている老婆は、富くじの売り子です。そして、当たりくじ掲示板の後方のガラスケースに入った数字は、おそらく前回や前々回の当たり番号を掲示したものと思われます。建物の中で、回転円盤をまわしているブルジョワ風の女性は、既に次の富くじを買うに当たり、自分で数字を選ばずに、回転盤の助けを借りることで、迷わずに札を選ぼうとしているのでしょう。現代の宝くじ騒動の原型がここに描かれているようです。
2009.01.30
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乳母と里子 マルレの石版画集より(1)母が子を母乳で育てる習慣は、18世紀以降次第に普及しましたが、1820年代のパリでも、生まれたばかりの乳飲み子を田舎に里子に出す風習は、根強く残っておりました。この絵は、石版画家ジャン・アンリ・マルレが1821年から24年にかけて発表した『タブロー・ド・パリ』という連作の中の1枚で、『乳母管理局』と題された絵です。マルレは少し後の世代のドーミエのように、名声を博した大画家ではありませんが、当時のパリの世相を、まるで写真に写したかのように正確に描写した人物ですから、この絵も当時の様子を正確に描写していると、考えられています。先ず、乳母管理局ですが、これは1765年に設けられた役所で、革命によっても廃止されず、むしろ拡大強化された機関です。パリ近郊の貧困農民にとって、里子を引き受けることは、現金収入を得るために欠かせない仕事でしたから、もう乳のでないような女性まで、何とか乳母の仕事にありつこうとヤッキになり、多くのトラブルが起きていたのです。こうしたトラブルや弊害を除くために出来たのが「乳母管理局」でした。そして、この絵の発表時期とも重なる1821年まで、農村地帯から乳母の希望者を集めてくるのは、運び屋と呼ばれた40人ほどの斡旋業者でした。彼らは乳母希望者をパリに運び、乳飲み子と一緒に農村に連れ帰るのです。その上、約束された毎月の手当ての受け渡しも担当していました。それが1821年からは、パリに27名の有給の係員が置かれることになり、この係員が乳母希望者を斡旋、確かに乳母たるに足る資質を備えているか否かは、医師の検査によって決定することとなったのです。乳母管理局は、各家庭からの里親探しの依頼を一括管理し、乳母(里親)の紹介と賃金の定期的な支払いを保証する役割を果たしたのです。乳母管理局の中央本部には、乳母24人分の休息・宿泊施設もあり、1821年には、日帰りせずに宿泊した乳母が5420名に達しました。そのうち6%にあたる希望者は、契約相手を見つけることが出来なかったと記録されています。この絵は、農村から乳母希望者を連れてきた係員が、契約の成立した乳飲み子を乳母たる農婦に渡している、出発準備風景です。正門前と中庭には、出発待ちらしい女たちのグループ(画面の一番右手)と、到着したばかりらしい女たちのグループ(歩哨のそば)が見えます。農婦達の被り物の内、高くとがっているのは、ノルマンディのコー地方特有の被り物です。もっと平たい形の単純な被り物は、パリ近郊農村の女たちのものだろうと思われます。子を里子に出す風習は、この時代にもなお、根強く残されていました。その点は、19世紀40~50年代に活躍したフローベルの代表作『ポヴァリー夫人』の主人公エンマが、わが子ベルトを里子にだしていることからも、理解できますね。
クロニクル 南ヴェトナムでテト攻勢1968(昭和43)年1月30日ヴェトナム戦争の最盛期の話です。ついこの間のような気がしてならないのは、年齢のせいでしょうか、もう41年も前になるのですね。この日はヴェトナムの旧正月(テトと呼ばれます)でした。この日を期して、南ヴェトナム解放民族戦線と北ヴェトナムの連合軍が、南ヴェトナム中部の諸都市に、同時多発的な一斉攻撃を仕掛けました。準備万端を整えた上での一斉攻撃に、南ヴェトナム政府軍は一溜りもなく、米銀もまた守勢に回らざるを得なくなりました。翌日には、攻撃は首都サイゴン(現在ホーチミン市)市内と、古都フエにおよび、一時はアメリカ大使館を占拠する勢いを示しました。急遽米海兵隊などが増派され、大使館の奪回には成功しましたが、世界に解放戦線軍と北ヴェトナム軍の精強さと、組織的訓練の行き届いた様子は、世界に衝撃を与え、世界世論も圧倒的な南ヴェトナム支持に傾いたのでした。
ラファエロ「小椅子の聖母」この子の肘と脚の骨格及び筋肉をご覧ください。とても赤子や1,2歳の幼児のそれではないことが、お分かりいただけると思います。
2009.01.29
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マリア信仰の形成(12) カトリック教会の聖母マリア大作戦、女達の母性をくすぐる作戦はは、大成功を収めました。こうして慈しみ深いマリア像は、母から子へと伝えられ、各地に様々なマリア信仰をもたらしました。観音菩薩信仰とマリア信仰が結びついた、日本のマリア観音などは、その一つの典型と言えましょう。しかし、ここで言う「母から子へ」と言う時の「子」というのは、あのぐるぐる巻きにされた赤子や幼児を意味しません。上流階級の子女は、6歳を超えても乳母や傳役の手で育てられますが、食事は父母と一緒にとることが許され、他にも何かと面会が出来ることになります。中産階級の家庭では、労働の助手として、父母と一緒に過ごすことになり、特に母親から、色々な話を聞かされるのです。貧民家族では、その時間は長くはなく、家事奉公人や見習い工員や商家の丁稚などとして、住み込みで働くことになるまでの短い時間、やはり母から話を聞くのです。そうなのです。女達が母性に目覚め、聖母マリア信仰が広まってもなお、赤子や幼児はまだ大人たちの目に入らないのです。加工が必要なので、後ほどアップさせていただきますが、慈愛溢れる聖母マリアを何点も描いている、あのラファエロでさえ、赤子や幼児はきちんとそれらしく描けていないのです。彼の描く赤子や幼児が無邪気に動かしているかに見える脚を見てください。その肉付きやがっしりした太さは、明らかに少年の筋肉を持っています。ぐるぐる巻きの幼児の脚は、ラファエロをもってしても、しっかり観察できなかったのでしょう。18世紀においてもなお、余裕のある家庭の妻は、出来るだけ沢山の子を産むことを期待され、産んだ子は次々に乳母に渡して、次の妊娠に備えていました。何人産んでも子ども達は、成人するまで育つかどうか分かりませんから。中産階級や都市貧民は、労働のために産まれた子を里子に出し続けていました。そして農婦たちは、収入にならない我が子よりも、預かった里子たちの面倒を優先するしかなかったのです。赤子は母乳で育て、母自らが養育することの重要性を、世の母親達に説いたのは、18世紀の啓蒙思想家たちでした。とりわけ、ルソーの著した『エミール』の効果は絶大だったと言われます。彼の著作で、当時最も良く読まれたのが、この『エミール』と『ヌーベル・エロイーズ』だったのですが、上流階級の夫人達の間では、『エミール』にならって、母乳による育児が大流行するのです。少なくとも、赤子や幼児をぐるぐる巻きにする習慣は、この時期に一掃されています。サロンの流行が、男達に、妻をサロンに顔出しさせない男という、レッテルを貼られたくないという意識を生んだことも幸いしました。サロンの効用が、上流階級の夫人の出産回数の減少に効果を発揮したのです。しかし、中流や下層の人々の暮らしでは、まだ自ら赤子を育てるのは無理でした。19世紀30年代でもなお、農村へ里子に出す習慣は、頑なに守られていたのです。少なく産んで大事に育てるという発想が、中産階級の間に広まるのは、19世紀半ば以降に、ようやく上下水道の分離が実現し、赤子や幼児の死亡率が大きく減少した結果として、生まれて来るのです。慈愛溢れる聖母マリアが、深く敬愛され、大いなる支持を集めたのは、産んだ子を自ら育てることの出来ない母親達の、悲しみと憧憬の表れだったのかも知れません。 (完)
靴下のお洒落男性のお洒落はそうなんです、靴下なんです。先ずは下の2枚の絵を見てください。上の絵は、フランチェスコ・デル・コッサが1470年に製作したスキファノイア離宮のフレスコ画です。下の絵は、1474年に描かれたアンドレア・マンテーニャ作の「ゴンツァガ家の人々」です。ゴンツァガ家は中部イタリア、マントヴァの王家です。男性の着衣に注目してください。身近な上衣の下の長い靴下に注目してください。左右色違いの靴下になっていませんか。 ご丁寧に膝下と膝上で違っている靴下もあります。これが当時の上流階級の男性のお洒落だったのです。カルツェと呼ばれる長靴下です。胴衣もかなりカラフルですが、どうしても、この長靴下に目が集中しませんか。2本で一組、今でしたら左右の靴下が違っていたら、笑われます。しかし、当時は違いました。脚にピタリと密着して左は朱色系右はグレーや紺、そして膝下はさらに別の色というのが、当時の最先端のお洒落だったのです。この長靴下はやがて連結され、一つになって登場するのが、ズボンになります。ズボンの登場は、16世紀の後半になりますから、この時期からは約100年後のことになりますが…お洒落心は、男女を問わなかったのですね。
クロニクル 日本最初の戸籍調査実施1872(明治5)年1月29日137年前のことです。この日、日本で最初の全国戸籍調査が行われました。いわゆる壬申戸籍として有名になった明治時代最初の戸籍調査です。江戸時代は、全住民を寺に帰属させ、宗門改帳が戸籍の代わりとされていましたが、悉皆調査というには、問題がありました。この72年調査の結果、この時点の日本の人口は、男性16,796,158人、女性16,314,667人、合計で33,110,825人となりました。
2009.01.28
マリア信仰の形成(11) カトリック教会が、聖母マリアの母性を強調するようになったのは、14世紀末~15世紀にかけての時期でした。それは中世の農村が、大家族中心の構成から単婚家族(現在の核家族)中心の編成。に大きく代わっていく時期に符合しています。単婚家族であれば、生産労働のほかに家事をこなし、子どもの面倒も見る母としての女性の役割が、当然の如く大きくなります。カトリック教会はここに目をつけ、母たる女性たちの教化に全力をあげたのです。中世後期からルネサンスにかけての時期に、女性の社会的・法的な地位は、決して高くなっていないどころか、むしろそれ以前の時期に比べて、低くなっていると指摘されています。それでも、この時期に家族内において、女性は存在感を増しています。家族、とりわけ子ども達にとっての、母としての女性の精神的役割は、この時期から大きくなっているように見えます。カトリック教会は、この事実に着目して、ここぞとばかりに慈愛に満ちて、わが子を慈しむ聖母マリアを強調するようになったのです。ここに子を慈しむ聖母像が誕生するのです。聖母マリアは、あくまでもやさしく慈愛に満ちた存在として描かれ、さらに父たるヨセフを加えた聖家族の伝説までもが、加えられるのです。そこでは、イエスの外の子、ヨセフとマリアの夫婦の間に生まれた子ども達は、どこかに追いやられています。そしてイエス、マリア、ヨセフの3人だけの、庶民の家族でも模倣可能な、地上に降りた聖家族が描かれるのです。聖母像と、聖家族の強調。これこそがローマカトリックが農村女性をカトリックの教えに取り込んでいく手段であり、かつ女性をして、子どもや夫を、カトリックの教えに導く強力な手段だったのです。マリア信仰は、このような形で、カトリック世界に定着し、その後も着実に広がりを見せながら、女性信者を獲得し、さらに男性にまで、その信仰を広げて行く役割を果たしたのです。それでは、グルグル巻きに巻かれた、あの幼児たち、子ども以前の幼児たちは、いったいどうなっていたのでしょうか。次回はこの点を記して、この稿を閉じることにしたいと思います。
モード情報の伝達肖像画というお答えをいただきました。確かに王家の肖像や貴公子・貴婦人の肖像画は、欧州絵画を語るときには、欠かせません。しかし、答えは別にあります。答えの前に肖像画について一言させてください。ルネサンス期の作品は、壁画や天井画画「覆いのです。当時壁に漆喰を塗り、そこに絵の具で描いていく、フレスコ画の全盛期でした。紙や布に描くことは少なかったのです。それゆえ、肖像画が普及するのも、もう少し遅く、一般化するのは、16世紀も後半、終り近くなってからなのです。そして、この肖像画こそが、王家の縁組に際してのお見合い写真の代わりをなすものだったのです。当然王族や大貴族の縁組は、当時の欧州の国際関係を睨んでの政略結婚でした。ですから、本人が我を張って、嫌だと言えるようなことはなかったのですが、嫌がる本人を説得する材料として用いられたのが、お相手の肖像画だったのです。「ホラお相手は、こんな美しい方ですよ」とか「姫様、どうです。イケメンの王子様ですよ」と、説得するために。しかし、見合い写真ですら修正が可能なのですから、宮廷画家の描く肖像画が、本人そっくりと言うことは、スペイン王室お抱えのゴヤの作品の登場まで、皆無だったのです。そうです。出来上がった肖像画は、本人とは似ても似つかない別人となっていたのです。ですから、この肖像画を実物と思う人は、当時はいなかったのです。笑えない話ですが、フランスのある王子は、スペインから迎えた迎えた花嫁が、美人とはいえないまでも、醜女ではなかったことに狂喜して、肖像画家の筆のすべりも、この程度なら許せると語ったという、有名な逸話が残っています。事情は花嫁側でも同じだったのでしょう。ところで、答えは人形です。大きめの人形をあつらえ、その何体かの人形に当代流行の衣装を着せ、しっかりとくるみこんで、国際商業に進出している有力商人に届けてもらうのです。1530年代に後のフランス国王アンリ2世の下に嫁いだ、カトリーヌ・メディシスと、彼女にイタリアから御伴した侍女達は、この人形の伝えるイタリアンモードを楽しみにし、早速にそうした服装の真似をしたのだそうです。スペインから、イングランドに嫁いだカタリーナ姫(英語ではキャサリン)もまた、フランス宮廷経由で、そうした情報を受けていたことは、良く知られる事実でもあります。この時期の、人形の写真がどこかにあるはずなのですが、見つけ出せずにいます。写真なしでお許しください。明日は、男性のお洒落について、写真付きで記します。
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クロニクル 警視庁、ロマンポルノを摘発1972(昭和47)年1月28日この日。警視庁は、ロマンポルノと総称された日活の映画群のうち3本を、わいせつ容疑で摘発、映画フィルムを押収しました。現在に比べると、遥かに護憲意識が高く、言論・出版・表現の自由の侵害には、ことのほか敏感な若者も多く、警視庁の姿勢には、辛らつな批判が相次ぎました。
ジョコンダ夫人=モナリザの服装昨夜の答えです。8人の皆さん、コメント有難うございました。お返事は差し上げませんが、この答えをご覧になってください。この絵は、銀行家サセッティ家の私的礼拝堂の壁画として描かれたキルライダイオ作の「聖フランチェスコの生涯」と題する作品の部分です。(1485年に完成した作品です)この時期の上流階級の女性たちの服装が、丹念に描かれています。中央の女性の着ているものが、「モナリザ」の服装と同種のものです。ゴンネッラと呼ばれ、15世紀後半から16世紀のイタリアで、当時のヨーロッパにおけるモードの先進国イタリアで、大いに流行して、女性たちが好んで身につけた衣装です。当時はまだ、体形に合わせた衣服を作る技術などありませんから、殆どの衣服は頭からズボッとかぶり、紐で止める形式の衣服が中心でした。ですから、ゴンネッラも全身を覆うワンピースのようなものだった考えて良いものでした。ただし、襟ぐりは深く切れ込み、胸元が広く開いていますし、肩も半ばまで露出しています。こんな点には、当時の上流階級の女性たちの開放感が、仄見えるようにも感じられます。ウエストはしっかりと締め付けることで、胸のふくらみも強調されていますね。女性美の理想は、この頃から追求されるようになったようです。ところで、アルプス以北のヨーロッパでは、モードの歩みは、イタリアに100年遅れます。メディチ家を初め、イタリアの名門女性たちが、西欧各地に輿入れすると、彼女達はイタリアの姉妹や親族の女性から、最新流行のイタリアンモードをの情報が届くのを、ひたすら待ち望むのです。そうした情報が届くと、女官たちを含めて、むさぼるように情報を摂取し、お抱えの裁縫士に、仕立てさせたのです。そこで、次の質問です。イタリアのモード情報は、どのような形で齎されたのでしょう。ちょっとお考えになってください。ブログで私が可愛がっている黒ラヴの「レオちゃん」のママが、写真の縮小方法を伝授してくれました。有難うございました。あぁ。良かった。
2009.01.27
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クロニクル 第1回ハワイ移民出発1885(明治18)年1月27日124年前になります。時まさに鹿鳴館華やかなりし頃ですが、同時に松方デフレが深刻化し、前年には、自由民権期の激化事件が頻発した、そんな世情の時期でした。この日、横浜港から、政府の募集に応じた927名のハワイ移民が、アメリカ汽船シティ・オブ・トーキョー号に乗船、ハワイに向け出航しました。移民は男性696名、女性1¥165名、小児66名でしたから、単身の男性が多かったことが分かります。また出身を見ますと、山口県出身者が415名、広島県出身者が220名を占めていました。ハワイ移民のルーツは1868(慶応4)年の5月に、153名が農園労働者として渡航した野が始まりです。71(明治4)年には、ハワイとの間にも修好通商条約が結ばれ、官約移民が開始されることになったのですが、それから14年して、ようやく第1回の移民が実現したというわけでした。当初の移民は出稼ぎが主であり、永久移住を考えた渡航者は少なかったのですが、こうした移民の背景には、幕末維新期以降の、急速な西欧医学の普及などによる人口増加を背景とした農村の窮乏があったことは否定できません。ハワイへの官約移民は、その後94(明治27)年まで、26回行われ、28,995名が渡航しています。その多くはサトウキビ畑で働く出稼ぎの農園労働者でした。追記 モナリザの服装の種明かしは、夕方致します。
皆さんご存知の名作『モナリザ』です。美術の話をしようというのではありません。「マリア信仰の形成」が、良いところまできました。丁度ルネサンス期に来ていますので、ここらでちょっと息抜きに、誰もが知っている有名人の「モナリザ」の君(=ジョコンダ夫人)のお召し物についてのクイズといきたいと思います。種明かしは、27日の午後にでも致します。彼女の着ている服は、いったいどんなだったのでしょう。コメント欄にご意見、お考えを書き込んでいただけると幸いです。
2009.01.26
マリア信仰の形成(10) カトリック教会が残した歴史上の汚点は、数え上げればいくつも出てきます。ただ、その中で最大のものをあげるとすれば、私は迷わず魔女狩りをあげます。詳しいことは別の機会に譲りますが、ローマ教皇庁によって、魔女狩りが解禁されたのが14世紀前半だったこと、魔女狩りの最盛期が16世紀~17世紀の前半だったことの、2点を記しておきます。中世ヨーロッパでは、王権よりも教権が優勢だったのですが、それでも、教会の支配は支配層にしか及ばず、民衆はカトリックの神よりも、土着の神々を信じていたのです。唯一の神を信奉するカトリックの教義が、隅々まで浸透しているとしたら、妖精たちや地域の守り神の登場する西欧の民話や伝承が、語り伝えられることはありえませんよね。そうなんです。教会は民衆と妥協し、民衆の信ずる土着の神々を、キリスト教の聖人に同化させる作戦で。支配層から民衆へと信仰を広める作戦を取っていたのです。さの作業が多少進んだところで、キリスト教の分派、教皇庁が排除することを目的に「異端」のレッテルを貼った分派を駆逐するために、編み出した戦術が魔女狩りでした。最初はそろりそろりと、そして、15世紀中頃から、魔女狩り攻勢は本格化していきます。これは、教皇庁の言うことを聞かぬものは、魔女裁判にかけて、魔女として処刑するぞと言う、恐怖による信仰の強制です。しかし、人は恐怖に対しては面従腹背の態度をとるものです。心の支配が目的の宗教にとって、これでは目的は達せられません。恐怖によって、「異端」を排除した後に、どのようにして民衆に教皇庁の教えを信じさせるのか。ここに大きな問題がありました。魔女狩りに眉を潜める教皇庁の良識派は、ここぞとばかりに、民衆教化のプランを練り、ここに登場したのが、聖母マリアの母性を強調することだったのです。とりわけ、北イタリアから南フランスにかけての一帯は、異端の信仰の強い所でしたが、小さな大人と称された6~14歳くらいの子ども達にとって、父よりも一緒に過ごす時間の多い、母の影響力が強いことに彼らは注目したのです。成人の男たちを教化するよりも、母親と小さな大人たちを教化することが大事だと気付いた彼らは、農村女性たちの母性をくすぐる作戦に出たのです。教会は母なる女性をターゲットに、その強化に努めよ。さすれば、子ども達もまた母の影響を受けて、改心するに違いない。女性を教化して、その影響を家族に及ぼしめるという方針が、ここに明確に定められたのです。15世紀も中頃に近づいた頃でした。こうして母なる女性たちの母性に訴えるために、教会の手によって、マリアの聖性と母性が強調されることになったのです。 続く
クロニクル 法隆寺金堂で出火1949(昭和24)年1月26日私が小学校に入る年ですから、60年前の出来事です。この日、法隆寺金堂から出火。大変残念なことに、模写中だった12面の壁画が全焼してしまいました。
マリア信仰の形成(9) ところで、母としてのマリアは、いつ頃どのようにして誕生し、カトリック世界に広められたのでしょうか。実はマリア信仰やマリア伝説は、当初は東西に分けられた東ローマ世界を中心に広まったことが明らかにされています。トルコのエーゲ海沿いの地域には、シュリーマンによって突き止められたトロイアの遺跡を初め、数多くのギリシア・ローマ世界の古代都市の遺跡が並んでいますが、そうした遺跡と並んで、イエスが十字架に架けられた後、信者達がイエスの母マリアを匿った、マリアの隠れ家とされる場が、いくつも存在しています。そうした地域は、イエスの死後、直弟子たちによって広められたイエスの復活伝説が、最初に広められた地域と、ほぼ一致しています。遅れて布教活動が活発化する後の西ローマ世界には見られない現象でした。この東ローマ世界のことを、ビザンツ世界とも称するのですが、ビザンツ世界におけるマリアとは、後の慈愛に満ちた優しい母とは全く違っていました。ひとたび修行に出たならば、「どんなに辛いことがあっても、歯を食いしばって頑張れ、目的を達して名を上げるまでは、決して帰ってきてはならぬ」と言う、あの孟子の母のような、厳しい母として描かれていたのです。人を寄せ付けない冷厳な母の姿がそこにありました。その姿が転換したのは、ビザンツ世界を離れたローマカトリックの世界でした。イタリアに始まるルネサンスのことは、ご存知の方も多いと存じますが、このイタリア-ルネサンスとりわけ、15世紀の中頃以降に展開する、その最盛期と深いつながりがあります。15世紀のど真ん中、1453年という年は、西では有名な英仏百年戦争の終了した年であり、同時に東では首都コンスタンチノープルがオスマン-トルコ軍の攻勢によって陥落し、ビザンツ(東ローマ)帝国が遂に滅亡した年でもあります。このビザンツ危うしの危機の中で、残されたビザンツ世界の学者や教養人は、交易のために当地と深い付き合いのあったヴェネツィアへと、避難したのです。文化的な後進地帯だった西欧世界は、ギリシアやローマの文化的遺産の継承すら十分に出来ずにいたのですが、そうした文化的伝統を余す所なく受け継ぎ、さらに発展させてきたビザンツ文化の粋は、ビザンツ世界の滅亡という危機の中で、濡れ手に粟のように、ヴェネツィア経由でイタリアの諸都市に吸収されていったのです。ギリシア哲学やギリシア数学、そしてギリシアの美術や文学は、こうしてイタリアに継承されることになったのです。ルネサンス建築として知られる、あのドーム式の大きな屋根は、この時期に齎されたギリシア数学の知識なしには、実現不可能なものでした。ルネサンスの一方の柱であるヒューマニズム(人文主義)の精神もまた、古典研究の中から生まれてきたものでした。マリアの母性を強調する傾向は、この人文主義の台頭と結びついています。人文主義の教師役である亡命者たちとの付き合いの中から、イタリア各地で教育の重要性が認められるようになると、文字を学び、読書に親しむ初歩の教育の必要性もまた自覚されるようになります。誰がそれを担当するのか。誰が子ども期の教育の必要を自覚することが大切なのか。ここから、子ども(幼児ではありません。6歳以降の子どもです)に道徳的、市民的な初歩の教育を授ける導き手としての、母親の果たす役割の重要性が意識されるようになったのです。しかし、これだけではまだ足りません。 続く
2009.01.25
クロニクル 朝日新聞創刊 1879(明治12)年1月25日今日が丁度130周年の記念日になります。そうなんです。朝日新聞が大阪江戸堀にて、創刊第1号を発行したのが、130年前の今日のことだったのです。ここに、大阪朝日新聞と、毎日新聞の前身東京日々新聞という、自由民権運動を支持する二つの新聞が出揃ったのです。
マリア信仰の形成(8)写真を載せます 昨日の記事にある、グルグル巻きにされた幼児を描いた絵画です。この絵は、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に近い、インノチェンティ女性修道院に併設された捨て子養育院所蔵の、幼児や子どもの様子を描いたものです。2列目からの子ども達のませた顔と、骨格にも注目してください。前列の2人の幼児は、足が巻かれていませんが、これは、排泄のために、ほどかれたところと、されています。子ども達の養育には、修道女たちが当たっていました。捨て子は中世よりも、ルネサンス期から急増し、その後19世紀にかけて増え続けますし、当時は修道院が捨て子養育院を併設して、その扶養に当たっていました。生存率がどのくらいか、長じた捨て子はどうなったかなども、いくつか追跡記録もあるのですが、それは、機会があれば、改めて記したいと思います。ここでは、幼児は、貧富貴賎を問わず、こういう姿で過ごすことが定められていたこと。この姿が捨て子院に特有の姿ではないことを、指摘するに留めたいと思います。山デジさんに教えを乞うて、ようやく写真の掲載に漕ぎつけました。実はお留守の場合を考え、神秘家の庵さんにも、メールでお願いしていたのですが、山デジさんから先にお返事がありました。有難うございました。
2009.01.24
クロニクル 「恥ずかしながら…」の横井さん1972(昭和47)年1月24日37年前のこの日、グアム島のジャングルで、太平洋戦争を生き延びた日本兵、横井庄一さんが元気な姿で見つかりました。横井さんは元陸軍軍曹、この日、ジャングルで川エビを捕っているところを現地の人に見つけられ、保護されました。横井さんは、ポツダム宣言の受諾を知らず、日本のポツダム宣言受諾から、27年もの歳月をジャングルに隠れ住んで、1人暮らしてきたのでした。食糧は果物や芋が多く、マンゴーの葉から衣服を作るなど、自給自足生活を続けていたのです。2月2日に帰国。羽田空港での記者会見で、「恥ずかしながら横井庄一、ただいま帰って参りました。」と挨拶。この年の流行語になりました
マリア信仰の形成(8) 西ヨーロッパ世界の乳幼児は、常に身体を布でグルグル巻きにされていました。顔だけ出して、首から下はさなぎのように蔽われているのです。動き回られては困るというなら、まだ動けない乳児をグルグル巻きにする必要はありません。でもグルグル巻きは乳児からであり、王家のプリンスやプリンセスも例外なくグルグル巻きにされています。何故そうしたのか。中世以降のヨーロッパでは、乳児から2~3歳までの幼児までは、グルグル巻きにして、身体の自由を奪っておかないと、獣と同じように四足で動くようになると信じられていたのです。両手は胴と一緒に巻かれており、両足も一緒に巻かれていたのです。ですから、股関節脱臼で歩行が不自由な男女は、とても多かったのです。さすがに住み込みの乳母や、農村の乳母が預かり育てている、6歳頃までの全期間をグルグル巻かれているわけではありませんが、小さな大人とされる6歳頃までは、親は子に関心を払いません。ですから、幼子がどういう存在であるかを知らないのです。それが西洋絵画に描かれた「幼子イエス」の姿や、イエス以外の幼子の姿が、良く見ると、大人のような表情を浮かべ、そして骨格や筋肉も幼児のそれではなく、まるで大人のような手足の筋肉や太さを持っているのです。人の良い日本人は、神の子イエスを描いているのだから、幼児にして深遠な思索に耽っていても不思議はないとか、手足も大人のようであっても不思議でないなどと、考えてきたようですが、決してそうではなかったのですね。画家達が乳児や幼児の身体を見たことがなく、どんな身体(特に手足)をしているかを知らなかったからなのです。まさしく、小さな大人となるまでの子ども達の生活は、受難そのものだったのです。どうして出自の貴賎を問わず、貧富の差を問わず、乳幼児への関心が著しく希薄だったのでしょうか。それは、この時代の子ども達の死亡率の高さにありました。西欧全体の平均で、1歳未満の乳児の死亡率は、なんと誕生した子どもの30%に達しているのです。さらに、10歳までに、また全体の3割近くが命を落としているのです。医学的知識の乏しい時代とはいえ、10人中6人が成人に達することなく、命を落としていた社会だからこそ、高貴な家柄や富裕層の家庭においても、幼児を家族とみなさない習慣が出来上がっていたのです。ですから、「幼子イエス」に人々が祈りを捧げるわけは、神の子であるイエスその人が、人間視されず動物と同じように放置される赤子に身をやつして、辛い生活に耐えてくださっていることに対する、感謝の念に拠るものだったのです。聖母マリアへの崇敬という、マリア信仰が誕生するには、母子の情愛が生まれてこなくてはなりません。西欧世界では、いつ頃、どのようにして、母たちはわが子を発見したのでしょうか。 続く所用のため、コメントへのお返事が遅れています。今しばらくお待ちください。
2009.01.23
クロニクル NHK初の国会中継1952(昭和27)年1月23日57年前ですから、勿論テレビなどはありませんし、存在を知る人っていたのかなぁ?という時代の話です。このひ、NHKラジオ第一方法が、史上初めて衆議院本会議の模様を実況中継しました。今の退屈な国会論戦は、見る人なんているんだろうか?って感じになりますが、この時代は珍しさもあって、結構人気になったようです。麻生君の祖父の吉田ワンマンの時代でした。
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マリア信仰の形成(7) 産児制限の思想や方法が普及する以前、女性たちはいったい何人位の子どもを生んでいたのだろうか。これは、人口史に関心のある人たちにとって、大変興味のあるテーマでした。そして実はカトリックの国や地域では、このことは比較的調べやすかったのです。そうです。プロテスタントに批判された幼児洗礼の伝統が、カトリック世界では長く残っていたからです。生まれるとすぐに、教会に連れて行かれて、神父さんの祝福を受け、洗礼名をいただくのです。そして神父は、教区の名簿に新たな信者の名を記載します。亡くなる時も、司祭に祈ってもらいます。こうして、カトリック地域では、こうした教区民の名簿が残されてさえいれば、村や町の人口変動を追う事は、そう難しいことではないのです。こうした何点かの調査の結果から、結婚した女性の最終出産年齢は、どの地域でもおよそ40歳くらいであることが分かります。また、夫が健在である家庭の妻は、平均して2年に1回は出産していることも確認されています。そして、17世紀の記録になるのですが、夫と妻が共に、健在で40代を迎えた夫婦の場合の、平均的な出生数は、6~7人となっています。ここから、生活に余裕のある王侯や大貴族、大ブルジョワの家庭を別とすると、比較的晩婚であったことが理解できます。女性の場合で、20代の半ばでの結婚が多かったのです。面白いことに、経済が不振の時期や、大凶作の後などでは、20代後半、30近くなっての結婚が多くなったりもしています。農民や都市の一般市民や下層民は、避妊法を知らない代わりに、結婚年齢を繰り下げることで、子沢山を回避していたのです。子どもは生まれてしまうものでした。では生まれた子どもはどうするのか。ここにも色々な問題がありました。「女性は、生む機械」と発言して、問題を引き起こした大臣までいましたが、王侯貴族や大ブルジョワの家庭では、妻はまさしく跡継ぎを生む機械でした。宗教は融通無碍のところがありますから、庶民の離婚は認めないカトリック教会も、跡継ぎの出来ない名門家庭では、分けのわからない理屈を拵えては、離婚を認めていたのです。佐藤賢一の直木賞受賞作『王妃の離婚』は、まさにそうしたケースを記しています。この場合も、妻が自ら授乳し、赤子を育てることはありえません。乳母が選ばれていて、養育は乳母に任されます。授乳は体力の回復を遅らせるため、次の妊娠に影響するからです。マリー・アントワネットの母、オーストリア女帝のマリア・テレジアは、こうして何と16人もの子を産んだのです。アントワネットは、その末っ子でした。乳母に子を預けるのは、上流階級や裕福な家庭だけだったでしょうか。実はそうではありません。生産力が低く、社会全体として、決して豊かとは言えないこの時代においては、夫婦は労働共同体でもあったのです。僅かな畑を耕す自作農や小作農も、都市の親方や職人も同じでした。農地や道具と言った生産手段を持たない(或いは借用できない)農民や職人は、当然一家を構えることは出来ません。生活手段がなければ、独立は不可能だったのです。そして独立して生計を立てるためには、妻と言う相棒が欠かせなかったのです。しかし、夫婦が共に暮らせば、普通に妊娠し、子が出来ます。しかし、妻は母としての子育てに篭っていることは出来ません。かといって住み込みの乳母を雇う資力はありません。ですから、都市の子どもはまず農村へ里子に出されるのです。6歳くらいまで育ったら戻してくれと言う約束で…。農家の妻は、都市の市民の子どもを何人も預かり、その費用を受け取ることで、農業労働の片手間に、仕事としての授乳時間を確保したのです。しかし、それは短時間でした。いったい、子ども達は、どのように育てられたのでしょうか。そして、どのくらいの子が育ったのでしょうか。 続く
2009.01.22
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クロニクル 社会党「新宣言」採択1986(昭和61)年1月22日23年前になります。この日は社会党の定期大会の最終日でした。前年の大会に、石橋正嗣委員長、田辺誠書記長を中心とした執行部は、ジリ貧の党勢を回復すべく、ニュー社会党をめざしての、大胆な党路線の修正を目指すことを提案、激論を戦わせた上で、翌年の大会までに、新路線を決定するという、決議を引き出していました。こうして、この日、検討委員会案として、西欧型社会民主主義への路線転換を明記した「新宣言」を提案、議論の末に賛成多数で採択されたのでした。ここに日本社会党は、遅まきながら、路線を転換し、社会民主主義に近づいたのでした。
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マリア信仰の形成(6)「処女にして母」となったマリアの発見によって、神に仕える修道女達には、魂の救いが与えられました。しかし、これでは人類の存続に貢献している、母なる女性達には、魂の救いが用意されません。特別な女性だけを救ったところで、信仰の広がりは期待できませんし、特別な女性は、一般の女性には関係のない存在なのです。一般の女性をマリア信仰に惹き付けるには、マリアの処女性ではなく、マリアの母性に注目した「聖母としてのマリア」、母なるマリアの発見が必要でした。女性が母となるからこそ、人類の存続は可能となります。母なる女性こそを豊穣の女神として描く習慣は、原始の時代からあったことは、良く知られています。しかし、西欧のキリスト教世界では、母性の発見は遅れに遅れます。西欧世界において、マリア崇拝が開花した12世紀においても、既に記したように、それはマリアの母性には繋がらないものでした。結論を先に記しますと、マリアの母性が開花するのは、14世紀後半から15世紀、ルネサンス運動が大きく開花する時期のことです。そしてそれは西欧の一部地域で「家族」が発見された時期と繋がっているのです。私はおかしなことを書きました。もっとおかしなことを書きます。イタリアを除くアルプス以北のヨーロッパで、幼児としての「子ども」が誕生するのは、実は17世紀から18世紀にかけてのことなのです。勿論、大人たちの意識の世界においてのことですが…。そうなんです。幼児=子どもは、それまでの西欧世界では、意識されない存在でした。これは下層民から、都市の市民、金持ちの大商人から、王侯貴族にまで共通した現象でした。子どもが意識の対象になるのは、6~7歳となり、労働力として期待される年齢になってからだったのです。そうです。6~7才からの子どもは、小さな大人として社会に受容されたのです。幼児としての子どもの存在を意識しない、そういう社会でしたから、当然ながらマリアの母性には思い至らなかったのです。では、当時の幼児はどのように扱われていたのか。何故、その存在は人々の意識に思い至らなかったのか、明日はその点を少し記してみたいと思います。 続く
2009.01.21
クロニクル ソニー8mmビデオ発売1985(昭和60)年1月21日24年前のこの日、世界のソニーが8ミリビデオを発売しました。ビデオカメラは70年代から発売されていますが、小型軽量の8mmビデオは、瞬く間し市場を席巻して行きます。そして。このしばらく後には、デジタルビデオカメラが登場するのです。
マリア信仰の形成(5)キリスト教の教父たちが、女性を忌避し、全面的に排除していては、人間社会の存続も、キリスト教の存続も不可能となります。自家撞着に陥った教会は、困りあぐねた末に、世俗における男女の結婚を必要悪として認め、男女の行為は快楽を求めるものではなく、子孫を設けるための行為としてのみ、これを認めたのです。 このとき、マタイとルカが伝えた神の子イエスの誕生秘話、あの「受胎告知」が大きな意味をを持って、教父たちの目に留まったのです。イエスの母マリアは、処女にして母となったではないか。マリアは特別の女性として、我々の前にあり、我々の苦衷に光を投げかけてくれている。彼らはこう考えたのです。こうして、当初マリアは、その母性によってではなく、処女性によって注目を集め、キリスト教会の信仰の対象に加えられたのです。しかし、マリアは特別な女性でした。「処女にして母」たることは、普通の女性にはできない相談です。例え彼女達が修道女であってもです。しかし、一生を処女のままで神に仕えて過ごすことなら、不可能ではありません。ここから、一生を神に仕える修道女たちに、魂の救いが与えられたのです。イヴは処女性の喪失によって楽園を追われました。しかしマリアはその処女性の保存によって、神の子の母としての地位を保つことが出来た。マリアは永遠の処女であり、その身体は穢れなく完全なものであるとされたのです。こうした処女信仰は、グレゴリウス改革の過程で広められ、聖職者の間ばかりではなく、次第に一般にも広がりを見せはじめたのです。時に11世紀の終盤から12世紀にかけての頃でした。12世紀前半のトゥールの大司教は、処女として修道女となった娘たちについて、こう語ります。 「彼女達は、彼女達の肉体に対する男の権力から自由であり、また彼女達の産むかもしれなかった子どもに対する恐れからも免れており、天では必ず報われ、いや既にこの世でも自由を享受している」と。当時、成人女性の死亡率で、ダントツの1位だったのが、産褥熱だったのです。ですから、子に対する恐れとは、出産の困難に対する恐れを指しているのです。大司教は、原罪を犯したことに対する二重の罰からの自由を語っているのです。妊娠と出産に対する苦痛という罰からの自由と、男性に対する服従という罰からの自由について語ったのです。しかし、この段階では、いまだ母なるマリアは、話題とされていないのです。 続く
2009.01.20
クロニクル 119番事始1936(昭和11)年1月20日今から73年前の昭和11年といえば、これはもう2・26事件に尽きるのですが、1カ月と6日後に、2・26事件を控えたこの日、東京警視庁消防部が、初めて管内の6消防署に1台づつの救急車を配備し、救急活動を開始しました。配備されたのは、丸の内、麹町、品川、大塚、荒川、城東の六つの消防署でした。同時に173個所の救急病院を指定しました。また救急呼び出し電話として、119番通話が指定されました。
マリア信仰の形成(4)キリスト教に限らず、世界宗教は、いずれも男性の宗教として登場しました。今では少なくなりましたが、かつては女人禁制の聖地や道場が、各地にあったくらいですから。キリスト教も男性の宗教でした。旧約の世界は勿論、『新約聖書』のイエス伝でも、女性は殆ど登場しませんし、女性で重要な役回りを与えられているのは、復活したイエスと最初に邂逅したマグダラのマリアただ1人です。現実には、初期の教父たちは、 女性を無視していたというより、忌避していたと言った方が正しいように思います。何故そうなるのか。『旧約聖書』の冒頭を飾るアダムとイヴの「楽園追放」の物語に、その根源があります。教父たちは、女人こそが、人類の始祖アダムを罪に陥れた張本人である。女人には恥じ怖れる気持ちも、善への性向も、友愛の心もないと彼らは主張しています。当然教父たちのこうした女性観の根底には、明らかに「創世記」のイヴの姿がありました。イヴは蛇に誘惑され、神の禁を破って禁断の木の実を食べた上に、夫たるアダムをも唆して、同じ実を食べさせています。ですから、イヴこそが楽園追放の張本人であり、彼女がいなければ、アダムが楽園を追放されることはありえなかった。人類に苦労や労苦を齎したのはイヴである。こう教父たちは主張し、女人こそが原罪の根源であるとさえ、主張したのです。西欧中世の大哲学者、トーマス・アクィナスでさえ、「アダムは蛇を信用せず、イヴに好意を示しただけだが、イヴは蛇の言葉を信じ、アダムにまで罪を犯させたのだから、イヴの罪はアダムの罪に比べて、数段重い。」と記しているのです。こうしてイヴは女性一般の代名詞となり、徹底的に女性は忌避されることになったのです。それゆえ、この時期には、マリア信仰が成立する余地はありませんでした。しかし、女人の存在を全否定してしまうと、人間社会の存続も、それゆえに当然キリスト教の存続も不可能になってしまいます。教父たちは深刻なジレンマに陥りました。 続く
2009.01.19
クロニクル 喉自慢素人音楽会始まる1946(昭和21)年1月19日8/15の敗戦から僅か5ヶ月後、63年前になります。この日、NHKラジオから、素人喉自慢の放送が始まりました。題して「喉自慢素人音楽会」でした。以来、今日まで、舞台こそラジオからテレビに変りましたが、ずっと毎週日曜日の昼12時代の放送が続いています。見事な超長寿番組ですね。
マリア信仰の形成(3)ところで。『新約聖書』の巻頭を飾る「マタイによる福音書」(=「マタイ伝」)は、マリアの夫ヨセフの家系図を。長々と記しています。イエスがヨセフの子であるなら、至極最もと納得も出来ます。しかし。イエスは神の子であり、ヨセフの子ではありません。マリアの系図を語るのであれば、話は別ですが。これは、当時が男性中心の社会であったことと繋がっています。当時の男社会にあって、子育ての決定権は、当然の如く父親にありました。まして、わが子でない子を養育するか否かは、あげて一家の家長である父親の判断にかかっていたのです。だからこそ、神の子イエスの養育に関わる者として、建国の祖アブラハムに連なる名門の家系に名を連ねる、ヨセフが選ばれたのでしょう。キリスト教が世界的宗教に成長するきっけけとなったのは、十字架にかけられたイエスの死後に、彼の弟子たちが編み出した、イエスの甦り伝説です。甦ったイエスは天に昇ります。まさしくイエスは神の子であったとする、この伝説こそが、キリスト教を世界的宗教たらしめた最大の傑作でした。広く世界に流布した世界的宗教は、開祖その人の力だけではなく、宣伝力を持つ有能な弟子に恵まれたか否かが大きな意味を持ちます。その点で、キリスト教の場合、この甦り伝説を編み出し、普及させた弟子たちの存在と、その後の数多くの神学者たちの活躍が大きいように思います。このイエスの甦り伝説は、イエス伝とでも言うべき、どの福音書にも共通しています。それゆえにイエスの誕生秘話、マリアの受胎にまつわる話の欠如は、余計に際立ってくるのです。要するに、初期キリスト教には、マリア崇拝は存在しなかったのです。では現在に連なるマリア崇拝は、いつ頃、どのようないきさつで誕生したのでしょうか。マリア崇拝、マリア信仰はどのように登場し、どのように広まっていったのでしょうか。いよいよ明日から、本論に入らせていただきます。 続く
2009.01.18
クロニクル 東京で市営バス初運行1924(大正13)年1月18日85年前のこの日、東京市で日本初の乗合いバスの運行が始まりました。前年の9月1日が関東大震災でしたから、震災後約4,5ヶ月での実現ということになります。そうなんです。関東大震災の結果、東京の各所で運行されていた、路面電車の軌道があちこちで破壊され、回復に時間を要すると判断されたところから、急遽市民の足を確保するために、考えられた計画だったのです。震災の翌月の10月16日に、東京市議会は乗合いバスの運行計画と、そのために必要な予算200万円を承認し、直ちにアメリカのフォード自動車に、乗合いバス車輌1千台を注文したのです。この注文車輌の第1弾として、11人乗りの車輌44台が到着、この日の運行開始となったのです。運行は、巣鴨~東京駅間の巣鴨線と、中渋谷~東京駅間の青山線の2系統でした。運賃は10銭でした。2ヶ月後の3月16日には、当初予定された20路線全てが開通し、総路線距離は148kmに達しました。こうして不慮の事故から急遽登場した乗り合いバスは、市営電車を代替する役割を果たしたのでした。東京における乗合いバス事業の成功から、次第に各地の都市でも乗り合いバスの運行が、行われるようになっていきました。
マリア信仰の形成(2)フラ・アンジェリコやレオナルド・ダ・ヴィンチらの名画「受胎告知」。大天使ガブリエルから、神の子の受胎を伝えられるマリア姿は印象的です。この場面は、イエスの生誕に関する大変重要なエピソードですから、さぞかし大々的にイエス伝に取り上げられているに違いない。こう考えて不思議はないですね。ところが違うのです。『新約聖書』には、4本のイエス伝が載っています。この部分は、『新約聖書』の中核をなす部分で、「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」「ヨハネによる福音書」という、四つの福音書です。いずれも、イエスの弟子たちによる「イエス伝」と呼べる内容です。しかし、四つの福音書の筆者達は、いずれもイエスの直弟子ではなく、その成立年代から言って、孫弟子にあたる人たちです。そのため福音書の内容は、イエスの直接の言行録ではなく、言行録の体裁をとった、「イエス・キリストは確かに神の子であった」ということを強く印象づけるためのメッセージという性格を持っています。こうした目的のために、夫々の地域で、福音書の筆者達が、各地でバラバラに伝承されていた、イエスに関する言い伝えを採取して記録したものが、4本の福音書=イエス伝になったと、現在では考えられています。そのため、4本の福音書は、良く似ている点も一部にありますが、大きく異なっている点も多いのです。この異なっている点の最たるものが、イエスの生誕に関する最大のエピソードである「受胎告知」なのです。実は4本の福音書=イエス伝の中で、マルコとヨハネによるものは、1行たりとも「受胎告知」に触れておりません。この2書では、いきない成人後のイエスの言行が語られるのです。「受胎告知」に触れているのは、マタイとルカの二つの福音書だけなのです。しかも、告知の内容は、この2書の間にも大きな違いがあります。「マタイ伝」では、大天使ガブリエルのお告げは、夫のヨセフに伝えられるのです。ヨセフは夢の中で、大天使ガブリエルの声を聞くのです。絵画の「受胎告知」にある、マリアの前に直接ガブリエルが現れ受胎を告げる、あの感動的シーンは「ルカ伝」にしかないのです。繰り返しになりますが、イエスの生誕にまつわるこの秘話は、キリスト教の布教を進める上で、大変重要なものです。もし、1世紀の中頃から後半という時期に、この話が噂としてでも、広く流布していたとしたら、福音書の筆者達がこれを無視することはありえたでしょうか。皆さんが、もし筆者だったとしたら、どうなさいますか。私だったら、大々的に書くだろうと思います。ですから、キリスト教の揺籃期には、「受胎告知」伝説は、まだ一部の地域でバラバラにしか語られていなかった、と考えられるのです。神が人間の女性を身ごもらせ、誕生した神の子が、世を救う救世主となるという物語は、ギリシア神話を初めとした、各地の神話に登場するパターンです。この種の伝承が、まことしやかに1部地域の信者の間に広まっていたのを、マタイとルカの2人が、別々の地域で別々に採取したのであろうと考えると辻褄が合います。 続く
2009.01.17
クロニクル 禁酒法施行1920(大正9)年1月17日89年前ですね。第一次世界大戦が終了して1年少々が経過した時期です。米国の話です。前年10月28日に成立した合衆国憲法修正18条(別名禁酒法)が、この日発効しました。禁酒法と呼ばれますが、この法は飲酒そのものは平定していません。ただし、酒類の製造、販売、輸送、そして輸出入の一切が禁止されました。酒屋や飲み屋は禁止ですね。このため、前日の16日は、深夜まで、なるべく沢山の酒類を自宅へ運ぼうとする車で、深夜までにぎわったそうです。しかし、この法は、字義通りの禁酒が実行されたかどうかという点でみると、明らかに効果の薄かった法に留まっていました。大都市ではもぐりの酒場が、多数営業を続けていました。アル・カポネが率いるシカゴ・シンジケートなど、ウィスキーの密輸と密売で巨額の富を得たギャング団が、幅を利かせたのも、このときでした。それでもこの法は、他方で、節約と勤勉を旨とし、敬虔であることを重んじるプロテスタントの価値観を、アメリカ社会の倫理的規範とする運動の政治的シンボルの役割を果たしたのです。こうして、20年代のアメリカで、禁酒法は、中産階級以上の人々から、なお幅ひろい支持を受けていたのです。
マリア信仰の形成(1)キリスト教は一神教です。ですから、イエス・キリストは神ではなく、神の子イエスとされます。神父さんの唱えるお題目も、「父と子と精霊の御名(みな)において…」となります。三位一体とは、この父なる神、その子イエス、そして精霊の3者を指します。この3者に入らないのですが、神の子イエスを身ごもり、その産みの母となったマリアも、いつの頃からか、信仰の対象となりました。私のブログをご覧くださっている皆さんも、イエスの母なるマリアのことはご存知でしょう。ヴァチカンの顔、サン・ピエトロ大聖堂の入口にある、若き日のミケランジェロの傑作「ピエタの像」のイエスの亡骸を抱きかかえたマリア像、レオナルド・ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」、そしてラファエロの「聖家族」を描いた一連の作品など、マリアを対象とした絵画や彫刻は、無数といってよいほど存在します。結果として、イエスの母は、聖母マリアとして崇拝され、今では信仰の対象とすらされていると言っても、過言ではありません。私が小学校時代に、NHKのラジオ歌謡で覚え、今でも愛唱している歌に、岡本敦夫が歌った「チャペルの鐘」があります。1番の歌詞は、「なつかしの アカシアの小道は 白いチャペルに続く道 若き憂い 胸に秘めて アヴェ・マリア 夕日に歌えば 白いチャペルの あーあ 白いチャペルの 鐘が鳴る」となっています。日本の各地に、マリア像があり、マリア聖堂も1,2に留まらないことも、ご存知の通りです。ところで、キリスト教の聖典である『新約聖書』西暦1世紀の末頃にかけて、約50年ほどの歳月をかけて、徐々に書き加えられて完成されたものと、考えられているのですが、この『新約聖書』では、母なるマリアは、全くと言っていいほど、存在感がないのです。ほとんど叙述されていないのですから。キリスト教信仰の形成期には、マリアは後世のような存在感を持っていなかったのです。マリア伝説の殆どは、後世になって作られたものです。では、マリア崇拝やマリア信仰とされるものは、いつ頃、どのような形で、どのような必要から生まれたのでしょうか。数回にわたってこの問題を、記していきたいと思います。お付き合いのほど、よろしくお願いします。 続く
2009.01.16
クロニクル ソユーズ号のドッキング1969(昭和44)年1月16日丁度40年目になりますね。この日ソ連のソ連の宇宙船ソユーズ4号と5号が、初めて地球の軌道上でのドッキングに成功、乗組員が相互に移動する実験に成功しました。この成功により、人類は、宇宙旅行への夢に、また1歩近づいたのでした。この2日後。東京大学は、安田講堂(学生用語で安田砦)を占拠する学生たちの排除を警視庁に要請、警視庁機動隊による学生の排除が行われます。そうした緊迫した空気が漂う中での、ソユーズ号のドッキングニュースは、久々の明るいニュースでした。
南海泡沫事件顛末記 終章 現在の危機 付記サブプライム危機に関して、日本の金融機関の受ける影響は小さいという話が、飛び交っていました。それなのに、いつの間にか、予防的に金融機関に公的資金を投入するという話になっています。この問題を最後の最後に記して、本当の終りにさせていただきます。メガバンクの中では、海外再展開が最も速かったみずほコーポレート銀行と、みずほ傘下のみずほ証券の損失が突出していましたが、それでも欧米の金融機関のそれに比べれば小さく、みずほにしても、自力増資で自己資本の毀損を補うことが出来たのですから、確かに被害は小さかったと言えます。ただし、これはメガバンクについてです。「羹に懲りてナマスを吹く」の例え通り、バブルの後遺症の影響もあって、証券化商品の組成や売買に積極的に関わっていなかった、或いは関わることが出来ずにいたことが、結果的に幸いしたと言えます。しかし、地方銀行とりわけ、第二地銀と呼ばれる地銀下位行や1部信金などは、大きなダメージを受けたところがかなりあります。1997~98年の金融危機を経て、金融界の合従連衡が始まりましたが、なお道半ばの状態で、米国発のサブプライムショックにぶち当たったのです。オーバーバンキングの状態が続き、預かり資産に見合う、安全な融資先を見つけられない金融機関が、かなりの程度存在したのです。安全でないリスキーな融資先は数多くありましたが、そうした融資は証券化して、リスクを分散する技術的ノウハウを持つ、海外銀行の日本支店の独壇場でした(こうした外銀も、証券化のバケの皮が剥がれて、相次いで撤退したことはご存知の通りです)。結局、メガバンクや有力地銀に、健全な融資先を押さえられてしまった中小金融機関は、余剰資金の投資先として、利回りの良い証券化商品を選ぶことになったのです。高い格付けに釣られてのことでした。当然体力に比べて、大きすぎる損失を抱えることになりました。1千万円までの預金の保護という、セーフティネットも完備しています。オーバーバンキング状態の解決にも役立ちます。ですから金融庁は、淡々と金融検査を通じて債務超過の銀行に、業務停止と身売りの宣告をすればよかったのです。しかし、しませんでした。しないで、金融界が貸し渋りをはじめたので、貸し渋りを防止するために、自己資本を厚くしてもらう必要があるので、メガバンク以下全ての金融機関に、公的資金を投入するときたのです。実はメガバンクの融資姿勢は、ずっと変わっていません。資本を厚くするつもりなら、自力融資も出来ます。世界的にも安全な金融機関の上位に入っているからです。それでも公的資金の投入を歓迎するメッセージを出しています。中小ゼネコンや不動産関連のゾンビ企業と縁を切って、その分の不良債権を損金処理する時に、自己資本比率を減じないで済むための、資金的なゆとりを公的資金によって得ることが出来るからです。そして、政府が公的資金投入を早々と決断した本当の理由は、1995年の住専の処理と全く同じ、農協の救済にありました。全国の農協は、組合員や地域で必要とする僅かな貸し出し分を除いた全ての貯金を、農林中金に預けて運用してもらっています。大金の集まる農林中金には、しかしながらメガバンクや上位地銀のような貸し出しノウハウはありません。その結果、高利回りに引かれて、証券化商品に対する投資にのめり込んでいたのです。ご承知の通り、役所の縄張りの関係で、農協と農林中金は農水省の管轄下にあり、金融庁の監督を受けません。結果として、農林中金は、みぞほグループを大きく超える損失を抱えているのです。公表されていませんから、最終的な損失がいくらになるかは、不明なのですが、公的資金を投入しなければ、農林中金は確実に破綻する額であることは間違いないようです。さすがの農水も白旗を揚げ、今後は農協や農林中金を金融庁の管轄化とすることを受け入れる条件を出し、公的資金の投入を訴えたというわけです。唐突な公的資金投入の裏には、こうした仕掛けが隠されていました。郵貯にせよ、農協にせよ、貸し出しノウハウを持たない、金融業に必要な利潤確保手段を持たないままで、多額の預貯金を預かるという無茶苦茶な金融機関が、政治の庇護の下に残っていたことが、またしても問題を起こしたというのが、真相です。郵貯資金は、財政投融資として、多額の政府の隠れ借金の原資となってきました。この伏魔殿の解体も緒についたばかりです。いったいどうなるんですかね。この国は… 完
2009.01.15
クロニクル UFJ銀行誕生へ2002(平成14)年1月15日7年前の今日。三和銀行と東海銀行が合併して、UFJ銀行が誕生しました。90年代のバブル崩壊を受け、金融機関の自己資本が痛み、大手銀行の合併を含む合従連衡が盛んに行われるようになり、さくら銀行(前身は太陽神戸三井銀行)と住友銀行が合併した三井住友銀行、富士・第一勧銀・興銀が合併したみずほ銀行、そしてUFJ銀行と東京三菱銀行が、4大メガバンクと言われましたが、やがて、UFJは東京三菱との合併を選び、現在は三菱東京UFJ銀行となっています。
2009.01.14
南海泡沫事件顛末記 終章 現在の危機 補遺今回の金融危機について、言及が足りなかったと思われる点をいくつか補足したいと思います。どうも、私の連載には、いつも番外編がつくようで、申し訳ありません。アメリカの金融危機は、80年代後半から90年代の初めにかけてもありました。日本で言うなら信用組合や信用金庫に当たるような、小規模な金融機関で、アメリカではS&Lと呼ばれている貯蓄信用組合中心の、金融危機です。トバッチリを受けて、シティ・バンクが経営危機に陥り、サウジアラビアの皇子の出資で、危うく難を逃れたのが、この危機でした。この時、米国は公的資金投入の前提条件として、厳しく経営責任を問うと同時に、S&Lの経営者や重役の刑事責任をも積極的に問うたのです。何と総計1,500人以上の経営者や重役が刑事訴追を受け、その半数以上が実際に逮捕されたのです。問題は、その罪状にあります。それが何と「返済不能な融資を行った責任」というのですから、何とも強引な理由付けでした。確かに融資の中には、明らかに情実に拠る背任行為と思えるものもあります。そうしたケースなら訴追も当然でしょう。しかし、一般論で言えば、融資の貸し倒れ率がゼロということは、先ずありえません。そのために金融機関は貸し倒れ引当金を積んで、いざという時に備えているのです。融資先が、不測の事態に巻き込まれて倒産することもあるのですから、それだけで監獄にぶち込むというのは、相当に理不尽なことでした。それでもアメリカは、理不尽を通して、多くの経営者を獄に繋ぎ、その上でS&Lなどに公的資金(税金)を投入したのです。アメリカは、この実績も下に、不動産バブルの崩壊による不良債権の累積に苦しむ日本にも、アメリカ型の処理ととって、早期にバブル崩壊の危機から脱却するよう、日本政府や金融当局に発破をかけたのでした。しかし、日本は国内の貯蓄率の高さを拠り所にして、事態のソフトランディングを追及しました。そのため日本では金融機関の経営者や重役たちが、刑事訴追されるどころか、その地位を追われることさえ、極めて稀だったのです。ところで、今回のアメリカです。S&Lの経営者達を、半ば無理やりに刑事訴追し、そして実際に獄につないだにも関わらず、当時よりも遥かに高額の、天文学的な数字の公的資金を注ぎ込み、さらに追加の投入が確実視される情勢にありながら、経営者を訴追する動きは見られません。罪状という点では、前回に比べると、今回の方が明らかに明確です。「構造上、明らかに流動性を失う可能性が高いことを認識しながら、金融工学というマジックを悪用して途方もないレバレッジを利かせ、そこに意図的に高格付けを付与させて、目くらましとし、安全な商品に偽装して、価値の殆どない証券化商品(CDO)を販売した罪」は、まさしく金融機関の集団的詐欺として、十分立証が可能なように思えます。そこでは、格付け会社の経営者及び担当者も、同罪です。金融機関の担当者や経営者の行為は、明らかに意図的でした。過剰なレバレッジに対する金融当局の規制を、自由放任の名の下に拒否し、格付け機関を動かして高格付けを得る手口が、意図的でないはずはありません。市場で全く値がつかず、事実上無価値なCDOが、いまだに最上位のまま放置されている事実を見れば、どこからみてもおかしいのは、一目瞭然です。この状態を放置し、S&L事件の時と、全く異なる方針を採り続けているのはなぜか。私には、2005年まで、ゴールドマン・サックス証券の最高経営責任者(CEO)兼会長だったポールソンの意思が働いているとしか思えません。彼は、何とか自分の仲間を牢獄送りにしないで済むように、必死なのでしょう。しかし、これで、果たしてアメリカの正義は守れるのでしょうか。リンダさん、どうなさいます?
クロニクル 文学座分裂1963(昭和38)年1月14日46年前になるのですね。東京オリンピックの前年のことになります。この日文学座に属していた芥川比呂志ら29人が、同座を脱退。劇作家の福田恆存を中心に、劇団「雲」を結成して、独立しました。
南海泡沫事件顛末記(53) 終章 現在の危機 長くなった連載も、いよいよ最終回です。昨日のno,52に、天下大乱の可能性を記しました。勿論大乱は経済合理性に合いません。どの国でも革命や、政治的混乱の時期には、経済は長い下落や停滞の時期を経験しています。ですから、昨日の指摘は、大乱の発生によって、経済はさらに落ち込み、混迷を深めることに繋がるだろうという、メッセージとしてお読みいただけると幸いです。一つの史実を記しておきます。1929年に、米国ニューヨークのウォール街の株価大暴落に始まった世界恐慌に際し、ニューヨーク株式市場のダウ平均株価は、29年9月の最高値が381ドルでした。このダウ平均の29年安値は、11月13日の198ドルです。そこから少し戻すのですが、やがてずるすると下げに転じ、31年9月には100ドルを割り込み、32年7月8日の大底時は、何と41ドルにまで下落しました。下落率は89%に達しました。問題は、29年9月の高嶺381ドルを回復したのは、第二次世界大戦の終了から9年も経った1954年だったという事実にあります。戦争を挟んだとはいえ、回復には25年もの期間を要したということです。100年に一度という言説がマスコミに踊っています。だとすると、今年後半から回復すると言った類の、評論家の皆さんの発言を、そのまま受け入れることは出来ないように思います。アメリカでは、バーナンキFRB議長が、ひたすら市場にドルを供給していますが、その資金が市場で活発に利用される状態には、なっておりません。景気の底抜けを辛うじて抑えている状態です。どうやら、米国景気の緩やかな回復が起爆剤となって、世界経済が回復に向かうシナリオは、描けそうもありません。1973年の第一次オイルショック後の、世界同時不況は、77年頃からの自動車輸出を中心とした日本の経済回復が起爆剤となって、同時不況を脱しました。これがきっかけで、この時期に日本は、名実共に経済大国の仲間入りを果たしました。この故事に倣って、今回の世界経済の深刻な危機に際し、危機突破の起爆剤となりうる国は、どこかを考えると、その可能性を持つ国は、13億人の人口を抱える中国をおいてほかにない現実が浮かんできます。中国も現在は不況に苦しんでいます。成長率で8%以上がほしい中国にとって、5%の経済成長は十分不況なのです。この中国経済が回復に入り、大量の輸入を再開することが出来るか否かが、世界経済の底抜けを防ぐ、ほとんど唯一の可能性であるように思います。人口13億人の中国で、富裕層が5%だとしても、これだけで、6500万人です。中間層が2割とすると、2億6千万人となります。自給自足に近い生活をしている地方の貧農を除く、都市貧民や出稼ぎ労働者たちや都市近郊の貧農たちは、商品経済参加者です。即ち、中国市場は、世界最大の消費市場なのです。ダントツのトップ市場なのです。それゆえ、今回の恐慌的状態からの脱却は、まさに、中国次第ということが言えます。苦しい中で、対中投資を増やし、中国工場を充実させ、中国当局に中国の会社だと認めさせるところまで、現地に食い込んだ事業展開ができるかどうか。ここに今後の勝ち組と負け組みの分かれ道があるように思います。17世紀、18世紀のバブルと、現在のバブル。紐解いてみると、あまりにも類似の点が多いのに驚きます。人間の欲には、いつまで経ってもの思いが致しますが、その代償は、今回の方が遥かに大きかったことになります。レバレッジの利かせ過ぎが、その原因であり、それを規制しなかった誤りは、金融工学に対する過信によるものでした。 終り
2009.01.13
クロニクル 「ピース」発売1946(昭和21)年1月13日敗戦の年が明けた、昭和21(1946)年は、元日の天皇の人間宣言という、ショッキングな話題から始まりました。いまだ貧しく、全国のあちこちに焼け跡の残る、まだ貧しくつましい時代でした。暗い世相が続く中で、この日一つの明るい話題が提供されました。専売公社(現在はJT)が、高級タバコ「ピース」の発売を開始したのです。当時は10本入りで、1箱7円でした。私の小学校低学年時代は、1箱40円だったように記憶しています。
南海泡沫事件顛末記(52) 終章 現在の危機金融のメルトダウンに始まる経済危機は、今まさに始まった所です。その段階で、大きな市場の収縮が起き、短期間に大幅な売れ行きの減少が世界を包んでいます。高級品市場の収縮に始まった今回の危機は、12月には世界最大の安売りスーパー、ウォルマートにすら及んできています。11月まで好調を謳歌し、前年同月比での売り上げ増を記録していた同社も、12月は一転、前年同月比売り上げ減を記録したと、発表されました。途上国や新興国の落ち込みも深刻です。中産層の登場から日の浅い新興国では、日本や西欧のような中産層の層の厚さに欠けますから、経済危機はすぐに中産層の貧困層への没落を招きます。それゆえ、市場の収縮の度合いは先進国より大きくなります。隣の韓国で今起きている事態は、こう考えると良く分かります。元の蓄えが厚く、外貨準備の大きい中国も、経済成長率の下方修正が続いていますが、その中国市場の収縮は、ヴェトナムやタイといった対中貿易のウェートの高い、アジア諸国を直撃しています。ブラジル、メキシコ、アルゼンチンといった中南米の国々も、急激な生産減少に見舞われていますし、カナダやオーストラリアも自国通貨の下落(購買力の減少)に悩まされ始めました。中産階級の没落、貧困化が起きる時に、下層階級はどうなるのでしょうか。年末年始の日本では、日比谷公園のテント村が社会問題化しました。中産層の厚い、GDP世界2位の日本ですら、路上生活者の急増問題が起きているのです。となると、日本よりも遥かに深刻な経済事情を抱えている途上国、新興国で、どういう事態が進行しているかは、説明を要しないと思います。極貧層の増大は、必然的に社会的危機を深化させます。かつて、あちこちの国で、貧困層の暴動が繰り返されていた時期がありました。やがて、新興国や途上国の経済発展が軌道に乗る中で、こうした暴動は翳を潜めるようになりました。経済発展が社会的安定に寄与したからです。今、この経済発展はご破算になりつつあります。当然、この事態が急転直下収束することにでもならない限り、先の事態の想像はつきます。そうです。天下大乱。世界各地の途上国、新興国で、経済的混迷の深まっている国では、夏にかけて次々と、貧困層中心の暴動が発生し、やがてその全国化と政治的混乱に繋がっていくことが予測できます。米・欧における新自由主義という名に基づく、金融資本の支配とその暴走、そしてその破綻の代価は、世界的な経済危機を経て、現実の世界秩序に大きな打撃を与えることに結果する。そうならざるを得ないだろうと、私は考えています。それは、今年のどこかで起きるでしょう。回避できるならそれに越したことはないのですが、回避できる可能性は、限りなく小さい。今まで、記してきたことから、私はそのように考えています。 続く
2009.01.12
クロニクル 桜島大噴火1914(大正3)年1月12日95年前の出来事です。この日、桜島が大噴火を起こし、大量の溶岩が噴出しました。溶岩噴出の勢いは凄まじく、逃げ遅れた人を中心に、35人もの人が命を落とされました。ところでこの大噴火の結果、現在に続く記念すべき出来事が起きました。そうなんです、桜島が島ではなく、大隈半島と陸続きになったのです。
南海泡沫事件顛末記(51) 終章 現在の危機 多忙のため、2日間連載を休ませていただきました。申し訳ありません。バーナンキFRB議長と間もなく発足するオバマ政権の金融・経済・財政担当チームとの共同作戦である、景気刺激と金融機能刺激策が、劇的な景気回復に繋がる可能性は、高くありません。それは市場の収縮による急激な景気の落ち込みを下支えする効果を発揮することは出来るかもしれません。これはドル暴落を防げればという但し書きつきですが…。しかし、大変なスピードで進んでいる、景気の落ち込みを上回るほどの効果を発揮できるかというと、それは難しいでしょう。no,49に記したように、過剰に膨らみすぎたレバレッジ部分が急速に収縮しており、このデレバレッジ効果を打ち消すほどの効果は得られるとは、考えられないからです。効果あらしむるためには、市場にばら撒かれつつある3兆ドルの5倍も10倍もの資金の提供が必要です。それが不可能なことは、1兆ドル超の国債の消化すら危ぶまれるアメリカの現実を見れば(前回のno,50参照)、はっきりしています。FRBが、ドル紙幣をひたすら刷って、市場にばら撒き続けることは可能ですが、それをすれば、悪性インフレとドル暴落が確実に起こりますから、これは世界経済にとって、最悪のシナリオ以外の何ものでもありません。現在の危機からの脱却は、ポールソンが考えるような現在のシステムの再建という形では、ありえません。それは不可能です。可能な道は、金融資本に過度に依存することのないような、新しい経済システムを見つけることにあります。今回の危機は、時間が経てば傷が癒え、元のようになるという、景気循環の問題ではなく、新たなビジネスモデルの創造によってしか、回復不能のような危機なのです。世界経済は元の形に戻ることは、もはや不可能だろうと、私は考えています。1990年代の初めに、「大きな政府」に取って代わったのは、新自由主義に基づく小さな政府ではなく、「大きな金融」だったのです。金融当局や金融機関、格付け機関といった、一握りのエリートたちが市場を支配した、集権的な専制システムでした。新自由主義は、その手先として役割を果たしました。新自由主義者たちが唱えたような競争市場など、そもそも存在すらしなかったのです。それゆえ、暴走した金融機関が、再度の暴走がないよう、しっかりした規制の網を網羅的にかけることは、最低限避けられませんし、そうした上で、富の再分配機能を充実させ、世界規模で、下層の人々への分配機能を拡充させ、弱者に厚い公平性を確保した経済システムの構築が求められているように思います。 続く
2009.01.11
クロニクル 百円札発行1930(昭和5)年1月11日4日前の7日の日記に、聖徳太子をあしらった千円札が発行された話を書きました。1950年のことでした。ですから、千円札発行の20年前ということになります。現在からすると、79年前ですが、この日、聖徳太子は百円札と共に登場したのです。高校時代、当時私の通った高校の教頭先生は、昭和14年に教員として赴任されたのそうですが、そのときの初任給が、65円だったと話していました。給料袋に当時の最高額紙幣は1枚も入らなかった時代だったのですね。それでも、新卒教員には、使いきれない額だったとも…。道後温泉の宿を下宿代わりに使っていた「坊ちゃん」のようなことは、出来なかったがとも…。 ここでみんな爆笑でした。ちょうど、副読本で『坊ちゃん」を読んでいたからです…。追記これから地元のどんど焼きに出かけてきます。昨日いただいた、ブログへのコメント有難うございました。お返事は、帰り次第させていただきます。
クロニクル 徴兵令発布1873(明治6)年1月10日この日、明治政府は徴兵令を発布しました。士族に頼る軍隊を廃止し、広く国民皆兵の制度を打ち立てるのが目的でした。職業軍人に頼るのではなく、広く四民平等の兵制を敷くことをめざしたものでした。国民皆兵といっても、当時の日本の工業化は、まだ微々たるものであって、130余年前の日本は圧倒的に農業国家でした。それゆえ、士族らは百姓の軍隊に何が出来ると、馬鹿にしたのですが、山県有朋ら奇兵隊を組織した経験を持つ明治政府も長州系の要人らは、揺るぎませんでした。そしてこの国民皆兵制の正しさは、士族の馬鹿にした農民の軍隊が、士族の反乱をことごとく鎮圧したことで、とりわけ西南戦争の圧勝で、証明されたのです。時にこれから4年後の明治10年のことでした。
2009.01.10
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クロニクル OAPEC結成1968(昭和43)年1月9日41年前のことになります。この日アラブ石油輸出国機構(OAPEC)が、アラブの石油産出諸国と近隣の石油大国イランとで結成されました。それは、エジプトを盟主としたアラブ諸国が第三次中東戦争(別名七日戦争)で、イスラエルに大敗した翌年のことでした。現在問題となっているガザは、この戦争の時に、シナイ半島と共にイスラエルが占領した地域です(因みに、この戦争でイスラエルはヨルダン川西岸をヨルダンから、ゴラン高原をシリアから奪っています)。このOAPECは、1973年の第四次中東戦争において、実は翳の主役を務めます。石油資源を武器として、戦争勃発と同時に、イスラエルの味方をしたり、イスラエルを支持する国には原油を売らないと宣言し、実際に油井のバルブを閉めて油量を調節したのです。結果として、アラブやイランの原油に頼っていた諸国は困り果て、相次いで中東戦争に中立の立場を表明し、従来のイスラエルよりの立場を愁訴しました。欧州諸国にその傾向が目立ちましたが、日本などは、駐イスラエル大使を一時召還し、イスラエルとの貿易を凍結した上で、中曽根通産相(当時)を中東諸国に派遣して、原油輸出を懇請する慌てぶりでした。当時の田中内閣の列島改造計画は、このとき生じた石油危機によって頓挫しています。ここに石油危機も生じたのですが、これが資源産出国の資源外交が成功した最初のケースでした。それは、アラブ産油国の団結が保たれたことが大きな原因でした。OAPECの団結がイスラエルの一糸酬いることに繋がったのでした。PS,昨夜投稿したつもりが送れていなかったようですね。 (ザビ)
2009.01.09