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October 7, 2005
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テーマ:Jazz(1978)
カテゴリ:カテゴリ未分類
アーヴィング・バーリンは、アメリカのポピュラー音楽の創始者的な作詞、作曲家。
1888年5月11日、帝政ロシア、モヒレグ生まれ。
1989年9月22日、アメリカ、ニューヨークで101歳で死亡。

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アメリカン・ポピュラー・ソングを考えるとき、
やはり、真っ先に名前をあげなくてはならないのがアーヴィング・バーリンでしょう。

アメリカン・ポピュラー・ソングはジャズの原点でもあり、
そのアメリカン・ポピュラー・ミュージックの創始者であるアーヴィング・バーリンは、
アメリカのポピュラー音楽史上、最も重要な作曲家ということになります。

アメリカでは、アーヴィング・バーリンの名前を知らない人は、おそらくいないでしょう。
それは、アメリカの第二の国歌と言われている
「God Bless America(ゴッド・ブレス・アメリカ)」の作曲者であるからです。

しかし、日本ではアーヴィング・バーリンの名前は、コール・ポーターなどから比べると、
かなりなじみの薄いものだと言えるでしょう。
とは言っても、日本でも彼の曲を聴いたことがないという人は一人もいないと言ってもいいでしょう。
それは、彼の作った「White Christmas(ホワイト・クリスマス)」は誰でも知っているはずです。

彼の曲には、古き良きアメリカの文化が詰まっており、アーヴィング・バーリン=アメリカそのものなのです。
アメリカのポピュラー音楽を理解し、語る上では彼の音楽は絶対に避けて通ることはできないものです。
バーリンとその曲を解釈するということは、20世紀初頭のアメリカを理解するということでもあり、
はば広い文化的視点も要求されることになります。
したがって、彼の曲の歌詞を解釈し、メロディーを歌ってみると、そのころのアメリカを感じとることができます。
そういう意味から、アーヴィング・バーリンは、アメリカを代表する作曲家だと言えるでしょう。

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アーヴィング・バーリンは、本名をイズラエル・バリン(Israel Baline)といい、
1888年5月11日、ロシア系ユダヤ人のモウゼスとリーアの8人兄弟の末っ子として、
帝政ロシアのモヒレグで生まれます。

1893年、イズラエルが5歳のとき、両親と8人の兄弟の一家で、アメリカのニューヨークに移民してきました。
一家は、ロシア人やポーランド人の移民が多く住むマンハッタンのロウワー・イーストサイドで生活を始めますが、
父親は移住から4年目に亡くなり、イズラエルの兄たちが家計を支えることになりました。
イズラエルも新聞配達や雑用を引き受けては家計を助けるようになりました。
父親はユダヤ教会で歌を歌う朗詠(ろうえい)者で、イズラエルも父親と一緒に教会でよく歌っており、
歌が好きな子供でした。

イズラエルは、16歳になるとバワリーにある酒場の歌うウエイターになり、
客のリクエストに応えて歌ったり、酒を運んだり、即興で歌を作ったりしていました。
このころに「Marie From Sunny Italy」という曲を始めて出版しますが、
作曲は店のピアニストのニック・ニコルソンで、作詞がイズラエルでした。
この楽譜には、本名の「Baline(バリン)」が、ミス・プリントで「 I.Berlin(バーリン)」と印刷されたと言われていますが、
このときに改名したとも言います。

その後、1909年にティンパンアレーのテッド・スナイダー・パブリッシング・カンパニーに曲を持ち込み、
作詞家として契約をしますが、
その時、イズラエルはファーストネームをアメリカ的な響きのする「アーヴィング」に変え、
「Irving Berlin(アーヴィング・バーリン)」という名前でサインをしました。
そして、ティンパンアレーでソング・プラッガーをしたり、ヴォードヴィルに出演したりしながら、
作詞だけでなく作曲も手がけるようになりました。

1911年に、彼が作詞作曲した「Alexander's Ragtime Band(アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド)」という曲が、
爆発的に大ヒットし、バーリンの名前は一気に有名になりました。
この曲は、それまでのヨーロッパ的な音楽であったアメリカのポピュラー音楽から、
真の「アメリカのポピュラー音楽」というものになった初めてのものと言われています。
アメリカ中の若者たちが「カモナ・ヒヤー、カモナ・ヒヤー」とこの曲を歌い、
それが社会現象になり、ある意味では風俗に大きな影響を与えるくらいのものになりました。

ちょうどこのころ、1900年初頭は、ニューオリンズではジャズの誕生の動きが出てきていました。

その後、バーリンは1960年代まで、作詞、作曲家としてミュージカルや映画のために曲を作り、
その数は1500曲を越すと言われ、多作でも有名です。

その間に、第二のアメリカ国歌と言わるようになった「God Bless America(ゴッド・ブレス・アメリカ)」や、
「White Christmas(ホワイト・クリスマス)」など、多くのヒット曲を生み、
アメリカン・ポピュラー・ミュージックを作り上げた国民的な作曲家として知られるようになりました。

アーヴィング・バーリンは101歳まで長生きをし、
1989年9月22日、ニューヨークで安らかに息をひきとりました。

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アーヴィング・バーリンは、やはり非凡な才能の持ち主であったのでしょう。

彼は正式に音楽教育を受けたことはなく、楽譜は書くことも読むこともできませんでした。
また、彼の弾くピアノはひどいものだったらしく、キー(調)は「F♯」でしか弾けなかったと言います。
要するに、ピアノの黒鍵でしか弾けない「猫踏んじゃった」状態であったようです。
しかし、彼のイメージの中では、だれにも考えられないようなサウンドが響いていたということです。

彼の作曲方法は口ずさんだメロディーを採譜者に書き取ってもらうか、
直接アレンジャーに歌って聴かせるというものだったと言います。
また、この時期にちょうど「転調できるピアノ」という、
キー(調)をレバー操作によって変えることのできるピアノがあったらしく、
彼は、それを使っていろいろなキー(調)に変えてピアノを弾くことができるようになり、
そのことが、彼の作曲作業に大いに役立ったようです。
ちなみに、この転調できるピアノは、現在は存在していないということです。

彼は「黒鍵は手のすぐそばにあるじゃないか、Cのキーは音楽を勉強する者のためにあるのさ」と、
音楽教育を受けていない自分の弁解とも、
音楽教育を受けたものへの嘲笑ともとれるようなことを言っています。
そして、「僕は音楽の法則に無知なもので、いつも法則を破ってきたが、
結果的にそれが個性的な魅力になったのだ。
音楽教育の欠如から、僕の語彙(ごい=その人が使う語の総量)は限られたものになり、
いつも歌詞が単純なものにならざるを得なかったように、
ポピュラー・ソングでは、音楽に対する相対的な無知、無理解が有利に働くこともあるのさ」と、
音楽教育を受けていないことを一つの資質だと自慢するまでになりました。

しかし、このことは彼がそれだけ非凡な人間であったということで、
凡人にとっては当てはまるものではないでしょう。

*****

●代表作

Alexander's Ragtime Band (1911)

Play A Simple Melody (1914) 

All By Myself (1921)

What'll I Do? (1924)

All Alone (1924)

Remember (1925)

Always (1925)

Blue Skies (1927)

Say It Isn't So (1932)

How Deep Is The Ocean? (How High Is The Sky?) (1932) 

Easter Parade (1933)

Cheek To Cheek (1935)

Let's Face The Music And Dance (1936)

God Bless America (1939)

White Christmas (1942)

They Say It's Wonderful (1946)

There's No Business Like Show Business (1946)

It's A Lovely Day Today (1950)





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Last updated  October 8, 2005 05:52:40 PM
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