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テーマ:Jazz(1977)
カテゴリ:Musician
“December 17”(その3)からの続き
【引退~再カムバック~終焉(しゅうえん)】1964年~1998年 アメリカ国民最高の栄誉である『自由勲章』を授与 フランク・シナトラは、1964年あたりから、ヤング・マーケットを意識して、 親子ほど歳の違う若いプロデューサーを起用したり、 ロックビートのきいた編曲を得意とするアレンジャーを指名したりと、 シナトラ・サウンドは若返りを見せました。 そして、それが本格的に成功したのが、 1966年4月11日にレコーディングした「夜のストレンジャー」の大ブレイクでした。 7月2日にシナトラにとって21年ぶりの全米ヒットチャート1位になり、 さらに、ミリオンセラーになりました。 そして、1966年度のグラミー賞で最優秀レコード賞、最優秀アルバム賞、 最優秀男性歌唱賞を獲得しました。 この曲は、シナトラとしては、特に興味があったものではなく、 勧めらたからレコーディングしただけだったようで、 本人は、この曲をレコーディングしたことすらきれいさっぱり忘れていました。 それが、ステージでこの曲を繰り返しリクエストされるので、 もう「そんな曲知らないよ」と無視していられなくなったと言います。 そんななか1968年12月30日にレコーディングされた「マイ・ウェイ」が、 シナトラ健在を強く印象付ける一曲になりました。 1971年3月23日、 カリフォルニア州パームスプリングスの自宅からシナトラの引退宣言が発表され、 全世界に驚きと衝撃を与えました。 その年の6月13日にロサンゼルスのミュージック・センターで行われた、 映画テレビ界主催のコンサートのトリとしての出演が、 シナトラの引退公演になりました。 シナトラのもとに、カムバックを促すもの、あるいは「せめてレコーディングだけでも」という 3万通を超えるファンレターが世界中から殺到しました。 シナトラは現役中にはできなかった読書やゴルフ、油絵、旅行などに時間をあてるなど、 悠々自適の生活を求めました。 しかし、彼をよく知る人々は、 いつまでもこのような生活に満足できるはずはないと確信していました。 1973年4月17日、 シナトラはホワイトハウスに招かれ、 イタリアのアンドレオッチ首相の歓迎晩餐会で歌いました。 ニクソン大統領は、 「今宵この館は、イタリア生れの両親を持ち、貧しい環境からスタートして、 ついにはエンターテインメント界の頂点をきわめたひとりの男性を迎える栄誉に浴しております。」 とシナトラを紹介しました。 米軍海兵隊バンドの伴奏で10曲を歌い終えたシナトラは、 晩餐会のあとニクソン大統領のプライベート・ルームに招かれ、 熱心にカムバックを促されたと言います。 1973年9月30日、 引退公演と同じロサンゼルスのミュージック・センターで行われたコンサートで、 フランク・シナトラが姿を現しました。 シナトラの名前は、アルファベット順の出演者リストのなかに埋もれていたため、 多くの人は気づかなかったし、気がついた人も半信半疑でした。 しかし、本当にシナトラがステージに現れると、観客は感極まって総立ちになりました。 体は少々太めになりましたが声は衰えていませんでした。 むしろ2年半の休養が引退前の疲れた声を蘇らせ、 力強いスウィング感が、そして何よりも圧倒的な歌心がホールに響きわたりました。 4曲を歌い終えてステージの袖にひきあげてきたシナトラは、 自分に向かって何度となく「ヤー・ベイビー・ヤー」と繰り返し、 充実感に満ちた安堵の表情を浮かべました。 1973念10月にリリースされた、 カムバック第一作のアルバム『オール・ブルー・アイズ・イズ・バック』は、 予約だけですでに15万枚を超え、フランク・シナトラは、またもカンバックを果たしました。 そしていつのまにかシナトラは、ショウ・ビジネス界の帝王と呼ばれる存在になっていました。 1985年4月、11年ぶり3度目の来日公演を行いました。 もう歌えるはずがないと来日前まで斜に構えていたマスコミは、 年齢を超えた豊かな歌声に圧倒され、手のひらを返したように褒めちぎりました。 コンサート初日17日の晩は、フジテレビの『夜のヒットスタジオ・デラックス』に生出演し、 「ニューヨーク・ニューヨーク」を歌いこの1曲で1千万円を手にしたと報じられました。 また、22日に東京の帝国ホテルで行われたディナーショウは、 チケットがひとり15万円と13万円という信じられないような値段にもかかわらず、 700席のテーブルは埋め尽くされました。 1985年5月23日、 フランク・シナトラは、ホワイトハウスでレーガン大統領から、 アメリカ国民にとって最高の栄誉である『自由勲章』を授与されました。 ***** アルバム『デュエッツ』と『デュエッツII』 1993年と1994年にアルバム『デュエッツ』と『デュエッツII』がレコーディングされました。 これは、シナトラの最重要レパートリー曲をいろいろなシンガーとデュエットするというものでした。 トニー・ベネットやバーブラ・ストライザンドあたりは、 素晴らしさが想像できる組み合わせですが、 U2のボノやグロリア・エステファン、 そしてソウルの女王アレサ・フランクリンなどとのデュエットは、 ちょっと意外で想像がつかないものでした。 ボノはシナトラの孫娘からの強力なリクエストがあったと言いますが、 ボノとのデュエット曲、「アイヴ・ガット・ユー・アンダー・マイ・スキン」は新鮮なものになりました。 シナトラ側が希望したシンガーたちはいずれも各々の分野のトップスターなので、 契約的にもスケジュール的にも調整が難航することが予想されました。 しかし、全員がシナトラに指名されたことに感激し感謝しました。 契約の問題は、相手シンガーのレーベルからもリリースしてよいという、 互恵(ごけい)契約で解決しました。 そして、レコーディングは最新の科学技術を駆使することによって、 スケジュールの問題も解決しました。 それは、まず、シナトラがオーケストラと同時録音したあと、 デュエットの相手が歌う部分を消しておきます。 デュエットの相手は、好きなときに好きな場所で、 光ファイバーを通して送られてくるデジタル信号をスタジオに引き込み、 シナトラの歌とオーケストラを聴きながら録音する方法で行われました。 パリにいるシャルル・アズナヴールが、 「ユー・メイク・ミー・フィール・ソー・ヤング」を録音したときは、 シナトラの声は太平洋を渡りました。 ライザ・ミネリは、「アイヴ・ガット・ザ・ワールド・オン・ア・ストリング」を 南米で録音したと言います。 バーブラ・ストライザンドとは、 「アイヴ・ガット・ア・クラッシュ・オン・ユー」をデュエットしましたが、 いつも妥協を許さない彼女が、シナトラのキーで歌うことに同意し、 わざわざシナトラのレコーディングを見学しに行ったと言います。 『デュエッツ』の第一弾は1993年11月2日に、キャピトル・レコードからリリースされ、 11月20日のビルボード誌アルバム・チャートで、 いきなり2位に登場して、3週間この位置をキープしました。 セールスはわずか2カ月で200万枚に達して、プラチナ・レコードになり、 1年間で600万枚を、全世界で売り上げました。 翌1994年11月に第二段『デュエッツII』がリリースされ、 これもシナトラは様々なジャンルのシンガーたちと歌っています。 同じ趣向の第二段なので、一作目ほどのセンセーションにはなりませんでしたが、 それでもビルボード誌のアルバム・チャートで9位を記録しました。 そして、1995年度のグラミー賞で、 最優秀トラディショナル・ポップ・ヴォーカル賞を受賞しました。 ***** 終焉(しゅうえん) シナトラは1994年に公演中に倒れ、それ以後人前に出ることはなくなりました。 1997年から1998年にかけて、シナトラは心臓発作で、 ロサンゼルスのシダー・サイナイ・メディカル・センターに入退院を繰り返しました。 1998年5月14日の夕方、マリブの自宅で気分が悪くなり、 再びメディカル・センターで緊急治療が行われましたが、 午後10時30分ごろ心臓発作を起こし、午後10時50分、 日本時間では5月15日午後2時50分、この世を去りました。 82歳でした。 翌15日の夜、ラスヴェガスは1分間すべての照明を消して哀悼の意を表し、黙祷しました。 ニューヨークでは、ヤンキー・シタジアムでの試合の前に黙祷が捧げられ、 エンパイア・ステート・ビルはライトをブルーに変えました。 ロサンゼルスのキャピトル・レコード本社は黒いバナーが掲げられ、 シナトラの故郷、ニュージャージー州ホボーケンでは、 18日に教会に集まった人々が「マイ・ウェイ」を歌いました。 シナトラの葬儀は5月20日、 700人にも及ぶ人々が一同に会して正午から2時間にわたって行われました。 また、斎場の外では警察が1000人を越えるファンや報道陣たちの規制に追われました。 シナトラは生前に、アメリカ国民として最高の栄誉である自由勲章と、 アメリカ議会ゴールド・メダルを贈られていたため、 棺は埋葬地であるデザート・メモリアル・パークまでアメリカ海軍によってエスコートされ、 墓地ではアメリカ国旗がフランク・ジュニアに手渡されました。 来年は、このアメリカを代表する伝説的歌手のフランク・シナトラがこの世を去って10年、 アメリカ郵便公社(United States Postal Service)は、 2008年春フランク・シナトラの記念切手を発行することになりました。 つい先日、今年2007年のシナトラ92回目の誕生日である12月12日、 切手のデザイン公開セレモニーが行われ、 トレードマークのフェドーラ帽をかぶったシナトラの切手デザインがお披露目されました。 出席したシナトラの子どもたちは、 「父はこの国が大好きでした。 これは父にとって幸福な日々の1日になると思います」とコメントしたそうです。 アメリカ郵便公社によるとフランク・シナトラの切手は ファーストクラス・スタンプ(first-class stamps)として1億2000万枚を発行し、 来年春から販売を開始するそうで、 日本からもインターネットで注文できるということです。 フランク・シナトラは、アメリカを代表する偉大な人物として永遠に歴史に刻まれているのです。 アルバム『デュエッツ』→“December 20”参照 アルバム『デュエッツII』→“December 21”参照 【ジャズ】人気blogランキングへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
January 22, 2008 10:03:46 AM
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