カテゴリ:十日町友好交流
いつも応援していただきありがとうございます。 前回を読む 10時50分、十日町市博物館を出発する。 このあと、子ども達は中条小学校へ戻り クロスカントリースキーの体験をする。 (教職員・公民館職員・支所職員・看護師は子ども達に随行) 大人の交流委員は、日本一と云われる 十日町の"蕎麦"を食べに行くため別行動となる。 十日町の蕎麦は、信州の蕎麦より随分色が薄い。 これはつなぎに"布乃利(ふのり)"を入れているためである。 この布乃利は織物に使う海草から出来た糊で、 そのせいか、とても歯ごたえと喉越しが良く美味しい。 東京方面からわざわざ蕎麦を食べに来る客がいるというのも頷ける。 小嶋屋本店はこちらから この交流事業について誤解が生じてもいけない。 このあたりで交流の経緯を説明した方がいいと思う。 そもそも、この交流の遠因は、遥か南北朝時代にまで遡る。 後醍醐天皇に忠誠を誓う楠木正成と御家人足利尊氏らは、 力を寄せ合い鎌倉幕府の倒幕に成功した。 だか、やがて、尊氏は後醍醐天皇に叛き、 新しい幕府を開こうと企てた。 こうした背景の中で、 1336年5月のことであった。 足利尊氏は京都を攻め、敗れて九州へ退いていたが、 再び勢力を整え、東へと上ってきた。 一方、天皇方新田貞義の武将" 東上する足利勢を撃つために、1500余騎で 福山の守りについた。 同年5月15日、夜になり尊氏の弟 30万騎を率いて福山城を囲み、麓からいっせいに火を放った。 氏経の家来は、 「陣を構えて日も浅く、この城の準備はまだ出来ておりませぬ。 大敵を打つこと叶うとも思いませぬ。」 氏経は、 「見方の数は少なく敵は大軍。千に一つの勝ち目もなかろう。 だが、逃げることはできぬ。 ここで討ち死にし、名を残すことこそ本望と思い定めた」と。 家来達も口々に「申すまでもないこと・・・。」 暁となり、直義の軍勢はまず3千余騎で四方から駆けのぼり攻めて来た。 城内から矢を射て応戦するが、 氏経は、「味方が疲れてしまわぬうちに撃って出よう」と、 城内に5百騎を残し、千余騎を従えて直義の陣を目指し 険しい北の尾根から駆け降りて行った。 直義の陣に踊りこみ戦いつつ呼ばわったが、 そこに直義の姿はなく、既に味方は4百騎になっていた。 城の方を振り返れば、櫓から火の手が燃え上がり、 城は崩れ落ちている。 「敵がいかに多かろうと、大将直義を討ち取れば 我が軍の勝ちであったのに・・・」 氏経の脳裏を無念の思いが駆け巡った。 諮られた悔しさと、このまま撃ち果てては この苦戦は無になる・・・と、千々に心は乱れる。 意を決し、炎上する国分寺と国分尼寺の傍らを東へ、馬を駆った。 一方、足利直義は福山合戦勝利のしるしに首実験を行った。 その数、1353であったと伝えられている。 わずか3日間の戦いではあったが、福山合戦は凄惨の極みであった。 十日後には、湊川の戦いで楠木正成が弟 刺し違えて自害し、果てた。 やがて、足利尊氏は光明天皇を擁立し、征夷大将軍となって 室町幕府を開くのである。 福山の北側の麓こそ"ええとこ村"なのである。 今の新潟県十日町市中条の出身である。 戦い敗れた兵士達を福山から背負って下山し、 手厚く葬り供養した村人への恩は、 生きながらえ故郷に帰った兵士から語り継がれることになる。 つづく お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[十日町友好交流] カテゴリの最新記事
|
|