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倫理の進化

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若樹

若樹

Headline News

2012.07.20
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カテゴリ:思想
もう、全て告白する。

2006年、5月19日。
私が自殺決行した日だ。

この日を持って、正確には、この結論に至った、2006年の確か3月。
ああ、間違いない。3月だ。
この時、私は自分の活動の、終焉を受け入れた。

私は3月3日に、仕事中に高熱を出して倒れた。
その日は、友達とみんなで、夜中に「カレーパーティー」を行う予定の日で、私だけぶっ倒れ、バスを改造して当時住んでいた自宅に帰れず、友人宅で寝込み、その夜中、隣の部屋で3人の友人が、予定通りカレーパーティーをやっていたんだもの。


発熱の理由は、風邪でも何でもなく、ただのショックからのものだった。
土地を借りている地主さんから、犬達を連れて出て行く様に。と、いきなり通告されたのだ。
出来ないなら、犬は3頭くらいは残していいから、他の犬は全部保健所へやる事。

これが条件だった。
私はショックで熱を出し、仕事には何とか行ったものの、ぶっ倒れた。

私が当時住んでいた、南弟子屈の土地は、2001年の10月から借りたもの。

私が捨て犬や猫と共に、それまで住んでいた千葉から、北海道へ移住したのは、1999年7月28日。

この時期に咲く花で、一番身近な野花。
ルピナスの花が、丁度咲き終わろうとしている頃だった。

以前の報道で、何故か私は2001年に北海道へ移住した事になってらしく、ってちょっと待って。

私は自分の報道を殆ど全く見ていなくて。だって、テレビに自分が映っていたら、ギョッとするでしょう?私の犬の事について、釧路新聞と北海道新聞に掲載されて、北海道新聞による捏造で、私の身辺が大変な騒ぎになった。その記事しかまともに見てない。

読者の反応を煽る為、事実に捏造を加える様な事を、北海道新聞社と引き換え、一切しなかった、釧路新聞社に感謝した。

それはおいといて、マスコミの報道では、犬が140匹いたとか{いないっての。そんだけどうやって食べさすの。支援募集もしてない個人活動家が}仕舞いには、私の犬猫保護活動は、北海道に移住してから始まったとか、適当な想像で視聴者に伝えられていたらしく、ネットでたまたま私の事を書いた見知らぬ人のブログから知ったんだけど、

犬や猫の為じゃなかったら、北海道には生涯で一度も来る事なかったわ。
私は子供の頃から、寒いのが一番苦手で、夏の最中すら、北海道に来たいと思った事は一度もない。
暑い夏、大好き人間だったから、「避暑」なんて脳みそかすった事もなかったわ。

悪いが一年の3分の2を、冬の気温で過ごさなきゃならないこの土地に、憧れた事も、興味を持った事も、旅行に来たいとさえ、思った事は一度もなかった。

「北の国から」なんて、ドラマで見てもいなかったよ。
人気あるテレビドラマって事しか知らなかったんです。

私は、東京で生まれて育って、15歳の時に、バカ父親の作った借金清算の為、大田区の蒲田の1丁目、蒲田小学校の目の前にあった自宅を、バブル当時だったから、バカ父親のバカ母親が、確か二億で売ったの。

その時、私の犬が3人いて、(吹雪にチビにリキ)最初土地を売ってマンション買う事になっていたんで、この子達を保健所へやる、と、私を散々虐待してくれた祖母が言い出して、親戚のおじさんが怒ってくれた。

「あんたらそれでも人間か。」って。

家はこの祖母と伯母と父親と愛人のお陰で滅茶苦茶な家庭だったから、私には犬しかなかったんだ。
それを全部知っているおじさんが、ここまで直接関係者ではないから、意見や口出しは控えていたのに、私を虐待していた上、私の命綱となっていた、犬達を保健所へ送ると言う決定を聞いて、初めて怒って私達の家庭問題に踏み込んで来た。

それまで、周囲の見て見ぬ振りの中で、やりたい放題の虐待を、誰にも咎められないとの慢心の下、やらかしていた祖母達は、初めてひるんでそれはバツが悪そうに、態度を訂正した。

で、私は犬の為に、川崎で安い一軒家を見つけて(自分で探した)、独身の伯母と一緒にそこに引っ越した。

1987年だと思う。
中学を出てすぐだった。

ま、この話は後にしよう。

兎に角、その川崎に行く前で、既に「保護」の意識は確実に芽生えていた。

川崎へ越して、保護が現実的になって、それから近所の嫌がらせ。
そして千葉へ引っ越した。
私が18歳の時。
1990年かな。
確か、丁度七夕だったのを覚えている。

川崎を出る時には、最初アメリカ移住を考えて、何故なら土地が安くて広いからね。
犬達に、でっかい柵を作って、思いっきり走らせてあげれると思って。
その、18歳になった年の冬(私は9月生まれだから)、実際にアメリカたった一人で行ったもの。

センチュリー21、えーっと、蒲田の近くの東矢口かな?
アメリカ系の不動産会社なんだけど、そこに現地と渡りをつけてもらって。
色々考えて、「語学留学」と言う形で行ってしまえと。
後は、現地で兎に角誰でもいいから、ビザの有効期間に結婚しちゃおうと思ってた。
そしたら、離婚しても(って言うか打算婚だから、結婚したら、即離婚したかったけど)グリーンカードを貰えるから、そのままアメリカに住み続けられるし。

もう、日本なんてこりごりだったの。
犬を何だと思っているのかと。

で、語学留学出来るNYからほど近い、ニュージャージー支店の人と連絡を取って貰って、英会話のジオスに週四日、マンツーマン授業で付け焼刃の英会話を2~3ヶ月勉強して行きました。

でも、アメリカと日本と、土地の買い方とか色んな違いがあって、結局アメリカ移住は諦めた。

で、仕方なしに関東近辺の田舎を探し回って、そう、毎日不動産屋巡りだった。
収穫なく、疲れて帰って来ると、普通に高校生やってる幼馴染から電話があって、バイト先の男性に片思いしてるけど、どうしようって言う。

何て同い年で、抱えてる悩みが違うんだと脱力してた。

そう、それで千葉に山荘を1200万で見つけて勝手に、川崎の家を担保に入れて、不動産屋と仮契約を取って、そこで初めて我が家の名義人で、まだ、その前に死んだ祖母の遺産が多少銀行に残ってる(殆ど私が犬の為に勝手に引き出したけど)伯母に、「ここ売るぞ」と。

伯母は、とっくに犬だらけの家が嫌で、私を置いて東京に戻ってマンション借りて、一人暮らししていたからねー。


ああ、何でこんな事から説明してかなきゃならないの。
今、やっと仕事もなくて時間あるのに。
こんな事書いてて、肝心の玉手と、私の養父の、やった事を書かないうちに、また仕事に追われたらどうするの。

でも、大まかにでもいいから、筋追って書かないと、後から説明だと余計に面倒だからー。

ああ、心臓に悪い。
苦しい。

兎に角、もう伯母は住んでなかったから、伯母のマンション行って、伯母の首に包丁突きつけて、金を出すか、命と金の両方出すかと尋ねてみた。

罪悪感なんて、微塵もなかったけど。
この人には相当の虐待を受けたからね。
私にしてみたら慰謝料を、当然払ってもらいましょうか、くらいの気持ちしかなかった。

伯母も、ずっと17歳で私が、「復讐」を、唯一自分が生きる理由にして耐えていたのを止めるまで、「復讐の為に殺す人間リスト」の一員だったから。


それで、苦労して結局川崎の家を売り払い、残りのローンの保証人にさせて(まだ私18歳の時)、千葉の田舎に山荘買って、苦労して犬を連れて移住した。

ここが私の初めての田舎暮らし。
ここに確か、7年程いたと思う。


そこで更に捨て犬た捨て猫をどんどん置いて行かれて、そこでも犬や猫の鳴き声や匂いの為に、近所の嫌がらせは凄まじく、とうとう私は、もう一回引越しを余儀なくされて、またしても田舎の土地物件を見て回る事になった。

危なかったと言うか、去年の東北・東日本大震災の被害にあった、福島、宮城は、特に引越し先として、探し回った所だった。

テレビで被災した市町村の名前を見て震撼してしまった。
いずれも、私が住もうと思って実際に行って探してみた土地なんだから。

結局、東北に全く条件に合った所が見つからず、ある切っ掛けからようやく移住先に、北海道が候補地として浮上して来た。

自分としては、清水寺の舞台から、三回飛び降りる覚悟が必要だった。
日本の誇る寒冷地。
冬になると、大地が完全に凍りついてしまうと言う、寒いのが弱い人間には、想像したくもない苦手な地域。

新潟まで車で行って、フェリーに乗って、初めて北海道上陸(北海道の人達は、とんでもない人間の移住を許してしまって可哀相・・・)。





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Last updated  2024.05.06 10:01:46



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