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カテゴリ:もろさわようこ・おんなの歴史
10月17日の日記に、 「絶望の虚妄なること 希望と相同じい」と魯迅が書いていると もろさわようこさんが紹介してくれたことを書いた。
どんな流れの中でこの言葉が出たかというと、 7月の参院選で自民党が圧勝したことをうけ、 九条改正への動きが加速、 知る権利の制限、国防軍、集団的自衛権、 TPP、アベノミクス、原発の再稼働・輸出等々、 憂慮すべきことがらが次々と参会者から挙げられた時のこと。
「絶望的な状況にも思えるけれど」と言って、 魯迅の言葉を紹介してくれた。 「希望は永遠に続くわけでもないし、常に叶うわけではない、 それは虚妄と言っていい。 同じように、絶望だって虚妄に過ぎない。 今生きていることが希望なのよ。」と。
「そして、今生きていることが希望であるなら、今を疎かにしてはならない。」 と言って引いたのが、 カミュの「シーシュポスの神話」だ。
シーシュポスは、オリンポスの山に岩を持ち上げる刑罰を与えられた。 しかし、押し上げた岩はまたすぐに落ちてしまう。 この押し上げては落ちるが、永遠に続くという刑罰だ。
もろさわさんは言う。 「今、押し上げているという、この実存の厳しさが生きている証であり、 命の手応えなんです。」と。
今年になってから、もろさわさんの話を聞く機会が3回あったが、 これまでに増して、力強い声で深い内容を語っている気がした。 言い残しておきたいというような何かが伝わってくるのだ。 そんなやまんばの思いを話したら、 「遺言のつもりで話しているのよ。」との返事。
カミュの「異邦人」は読んだことがある。 ただ難解という印象だけが残っている^^; 今回は、「シーシュポスの神話」に興味を持ったのだけれど、 買っても積んどくだけになりそうなので、図書館から借りた。
人は皆、いずれ死んで全ては水泡に帰すことを承知しているにも拘わらず、 それでも生き続ける。シーシュポスの姿が自分の人生に重なって見えてきた。 遅ればせながら、カミュは不条理の哲学を解いた人だということを知った。
「生き方で示す」というその生き様の見事さをもろさわさんから学び、 ここ数年、 日々の行動や関わりを大切にしようと心がけて暮らしてきた。
今回読んだ「シーシュポスの神話」はやはり難しかったのだけれど、 現実の厳しさの中にこそ今を生きる手応えがあるということに関しては、 体験的に肯けるものであった。 災い転じて福となす、ピンチはチャンス、両義性など、 人生を楽ちんにしてくれる言葉の泉に、 豊かさが加わった気がしている。(^J^)
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