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山里栄樹の男物和装ブログ

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2014年01月04日
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カテゴリ:男性和装
和装で欧米を旅した幕末の侍たち

 長期の海外旅行には浴衣や作務衣に雪駄などの和装を持参すると何かと便利です。出来れば、羽織と長着のアンサンブルに袴といった本格的な男物和装を一組持っていきたいところです。
日本人が和装で海外に渡航していたのは70年以上前のことです。当時は客船と鉄道の長旅でしたので、ゆったりとした和装の方がリラックスできて旅を楽しめたのかもしれません。さて、幕末に開国した日本は欧米に外交使節団を度々派遣しております。

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太平洋を航行する幕府軍艦「咸臨丸」   勝海舟はサンフランシスコで記念写真を撮った

 万延元年(1860年)、幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節を米国へ派遣しました。正使の新見正興、副使の村垣範正、目付の小栗忠順らの使節が米国海軍のポーハタン号で渡米、護衛の名目で幕府軍艦の咸臨丸もサンフランシスコへ渡航しました。
 咸臨丸は軍艦奉行の木村摂津守の指揮のもと勝海舟が遣米使節補充員として乗船、米海軍のジョン・ブルック大尉が操船の指導のため同乗。通訳のジョン万次郎と木村摂津守の従者として福澤諭吉も同乗しています。

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 欧州への往路では、スエズから鉄道移動でエジプトを経て地中海に至った文久遣欧使節団

 文久元年12月(1862年1月)、幕府はオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルとの修好通商条約(1858年)で交わされた新潟と兵庫の両港開港および江戸と大坂の開市の延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉のため、欧州に最初の使節団を派遣しました。
 第一回遣欧使節団は、正使の竹内下野守保徳、副使の松平石見守康英、目付の京極能登守高郎、組頭の柴田貞太郎、福地源一郎、福沢諭吉、松木弘安(寺島宗則)、通訳(蘭語、英語)の森山栄之助と渕辺徳蔵など総勢38名でした。またオールコック駐日英国公使が自身の休暇帰国を一行の日程と合せ、交渉のサポートを行いました。
 一行は英国海軍の蒸気フリゲート艦オーディン号で欧州に向かって品川港を出航。東南アジアからインド洋を経て紅海からエジプト・スエズに上陸、鉄道でカイロからアレクサンドリアに出て、船で地中海を渡り英領マルタ島を経由して、フランスのマルセイユに入り、パリに到着。
 フランス帝国と開港延期の交渉が進展せず、英仏海峡を横断してイギリス帝国ロンドンに到着。オールコック駐日公使の協力を得て開港・開市を5年延期の「ロンドン覚書」が調印されました。この時期ロンドンでは万国博覧会が開催されており、ロンドン万博の日本コーナーには、オールコックが収集した品が展示されていました。
その後、オランダ王国、プロイセン王国・ベルリンと他国とも同様の覚書を締結しました。その後、ロシア帝国サンクトペテルブルクに入り、樺太国境画定に関するロシア帝国との交渉を行いましたが合意に至りませんでした。復路では、フランス帝国を再度訪れ「パリ覚書」を締結。ポルトガル王国を訪れます。帰路は英領ジブラルタルを経由、文久2年12月11日(1863年1月30日)に約一年間の旅を終え一行は帰国しました。
 

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  左;「第一回幕府遣欧使節」文久2年(1862年)、正使の竹内下野守保徳をはじめ総勢38名
  右;オランダにて撮影。右から組頭の柴田貞太郎、福澤諭吉、太田源三郎、福田作太郎







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最終更新日  2014年01月06日 17時43分22秒
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