大リーガー・井川の将来を強引に占う
正月明けで、まだ呆然としながら仕事をこなす日々が続いている。 私の会社の正月休みは、1日(月)~4日(木)で、5日(金)から仕事始めだったわけであるが、ものの見事に5日はオフィスの人口密度が低かったそうである。事実上、成人の日(8日)が明けた9日(火)が大多数にとっての仕事始めだったといっていいだろう。 実際は、こんなに正月を休むのは世界的に見れば日本ぐらいで、欧米はクリスマスの間に長期休暇が入り、中国・韓国は旧正月にビジネスが止まる。グローバルで仕事をしている以上、最低限のメールチェックは正月の間に行なわないといけないので、頭が完全に仕事から離れている日は余りなかった。 が、それでも確実に勘が鈍るのは英語に関する感覚である。 母国語以外の言葉は、やはり使い続けないといけないとつくづく実感する。オフィスからしばらく離れて復帰してから、英語を使わないといけない環境に対面したとき、頭に描いた内容を口にするまでの脳内レスポンスタイムの鈍化を痛感し、日本訛りのアクセントに逆矯正された自分の発音にもどかしさを覚えるのは、今回に限ったことではない。 今年の場合、4日(木)の晩に私がChairを務める電話会議があって、この日だけ出勤することにした。この時、グローバル会議において、咄嗟の対応までの対応を含めると、たった2週間程度のブランク(昨年は12/25より有給消化に入っていた)でも、致命的かもしれないと感じた。実際、2・3点ほど相手の質問に適切に答えていなかったように思う。単なる語学面のギャップだけでなく、先に結論を述べる傾向にあるグローバルミーティングにおいて、結論を最後に配置しがちな日本語の思考回路に毒されて、ロジカルに話せていなかったりするのである。 会社に入ってから、随分英語は上達したと思うが、まだまだ修行が足りないと思う。 根本的に英語の勉強が嫌いで、英語を使わざるを得ない環境にないと、英語に興味を持てない性分なのが悩ましい。入社当初は、焦りから、殊勝にも家で勉強していたことがあったが、最近ではもっぱらネットを眺めて就寝時間を迎える日々である。 こんな風に、一心不乱に勉強に取り組める子供が羨ましい。 本題に移る。井川慶のヤンキース入団会見を見た。 結論から言えば、井川のヤンキースでの可能性を感じた。別にランディ=ジョンソンが抜けて、左腕の先発枠が空いたからではない。その会見の、特に英語のスピーチを見ての印象批評である。 「2日間、特訓した」そのスピーチは、お世辞にも、流暢であったとは言えない。今の語学力では、現地の人の言葉はほとんど聞き取れないだろうし、日常会話ですら窮することがあるだろうと推測できる。 が、ここでのポイントは語学力ではない。ボキャブラリーや発音に関わらず、現地の言葉で話しながら堂々としている、その姿勢なのである。 特に日本人は、外国語を話すときに恥じらいがあり、また妙に文法に忠実な文章を話そうとして、結局不自然なコミュニケーションしか取れない傾向がある。日本の「恥の文化」は美徳だとは思うが、少なくとも違う言語圏の人とのコミュニケーションにはマイナスに作用すると断ぜざるを得ない。ほとんどの他の文化圏の人は、日本人が英語を話すときに浮かべる照れ笑いの意味を受け止められないのではないかと思う。 井川の場合、少し照れ笑いは見られたが、最初メッツに入った松井(稼)や、"My Name is Kazuhisa ISHII. Please call me Kazu." とだけ言って固まった石井(一)よりもずっと堂々としていた。この「堂々感」が大切なのである。 これもあくまで印象批評に過ぎないが、井川には図太い一面があると思う。この資質はピンチを招いた際の耐性としてピッチャーに必要な素質の一つだと思うが、異なる文化圏に適応するのにも不可欠な要素である。 不必要な恥じらいと過剰な謙遜は、自然なコミュニケーションを阻害する。日本人の典型的なパターンは、とにかく話さないことである。この結果、言葉を使う機会を失って語学力は伸びず、また相手からも理解されなくなって、自分の殻に閉じこもるようになる。こうしたダウンスパイラルを描くのである。 こういった経験を、私自身、特に海外出張で経験して、成長してきたと思う。 少なくとも、最初に海外に渡った際、井川のような堂々さは私にはなかった。それが羨ましくも思い、また参考にしないといけないと思う。 このブログでは、英語に苦しみ、そして失敗してきた私の経験を記録していきたいと思う。読者の皆さんにも参考になることがあるかもしれないし、そして、『x年後の自分』がこうした記述を読み返して、自分の成長の過程を実感できるだろうと思う。 ブログを立ち上げるとき、「英会話」をカテゴリーに含めるかどうか、若干躊躇したが、このカテゴリーを作っておけば、少しでも英語について振り返る機会が自分にできるだろう、と考えて設置することにした。しばしお付き合いいただければ幸いである。