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2023/10/22(日)08:05

秋の好日、古寺散歩

古刹(48)

2023/10/22/日曜日/寒露も末の日 小田急鶴川駅からちょっと歩いたところには素敵な営農団地がある。白州正子の武相荘とは逆の南側。 そこになかなかの古刹あり 岡上山東光院宝積寺 開基は東にありがちな伝説の、行基の奈良時代ともいうけれど、1358年に亮長という僧が再興したことが史実として風土記にあるらしい。 長く京都醍醐寺三宝院の末寺だったが、江戸後期に新義真言宗に転属した。 現在は単立寺院で檀家もあまりない様子。付属の墓地は近隣の現 岡上神社、元諏訪神社↓に 隣接し、長い歴史を考えれば規模はとても小さい。 何によってか、庭は手が入れられうつくしく、たいへん趣きのある古刹だ。 かつては町田市なとに九ヵ寺の末寺を持ち、江戸の初めに幕府から朱印地15石を与えられたという。 川崎市の寺の石高一位は王禅寺の30石、川崎区の稲毛神社、中原区の泉沢寺の20石に次ぐ、という。 一石は一人の人間が一年で消費する米の量と見積もられるとか。15石は15人を養うと思えば、さまでなことはないのかもしれない。 もっとも三度三度お米のご飯を食べられるのは恵まれた地位にある者だろう。 麦、ヒエ、アワなど雑穀を混ぜる割合は下々に行けば行くほど増していくはずだ。 15石はそれほどの財産とは言えないが、御朱印という幕府のお墨付きが威光をもたらした、かしら。 ここに前立ち仏として安置されている 兜跋毘沙門天 兜跋トバツの語源について決定的なものは無いようだ。案内では、トパン=チベットが転訛した、とあったが、現在は卒塔婆ストゥーパとの説が優勢らしい。 中国は玄宗皇帝の時代、五国の軍に包囲された危機に、毘沙門天の加護を不空に祈らせたところ、毘沙門天が現れ難を逃れた伝説から、王城鎮護の武神として中国で信仰された。 それから数百年後、平安京羅城門に、唐に見倣い、本邦初の兜跋毘沙門天が安置され、各地へ伝播した。因みにその像は東寺宝物館収蔵、国宝。 ところで、羅城門は京の南の中央に置かれた。 身分の高い者は南面する、のでお寺の本堂もたいてい南を向いている。 このお寺は東光院の名が示すように、本堂は東面している。 一説では東面する鎌倉街道の筋がいくつかある中でも、この筋が重要な道であったことから、そのような配置になったのだという 本堂は滅多に上がらせてはいただけないらしいけれど、地域観光課のご威光か、小分けにされたグループで拝観叶った。 毘沙門天を支える地天女の顔までは判然としない。 大地より湧出した大地母神が支える、という構成が興味深い。 間近で見られたのは、板碑 中世仏教で供養塔として用いられた石碑。市内最大の大きさで、1267年(文永四年)3月15日の日付が刻まれている。 このような立派な板碑が全国津々浦々の雛にも奉納された。当時の我々ご先祖は信仰が篤かったか、世がそこまで乱れていたのか。 因みに1267年は、漢民族の国が衰退し、蒙古人の王国、元が地上最大の規模で大陸を支配しはじめた。 元で官吏に登用されたのはイスラム教徒やネストリウス派の中東や漢人だったそうな。 間も無く日本にもその余波が押し寄せる。 風雲急なり。 その頃にこの板碑が。

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