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ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

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2018年03月07日
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カテゴリ:学び方・振り返り
(3)言語学の学び

 次に、言語学の学びに関して、吉本隆明のいう「自己表出」とは何か、また「言語道具説」とはどのようなものかを検討した過程を振り返る。

 まず「自己表出」についてである。結論から端的に述べれば、「自己表出」とは、三浦つとむのいう主体的表現と非言語表現との統一のことではないかということである。前回の振り返りの中では、以下のように分析していた。

「自己表出は主体的表現、指示表出は客体的表現、ととりあえず理解してもそう大きく間違いではないものの、言語が自己表出と指示表出の織物だという限りは、やはり少し違った面があることもあるのである。吉本はどんな品詞でも自己表出性と指示表出性を持っていて、その両者の度合いによって、品詞を分類している。最も自己表出性が強い品詞が感動詞であって、最も指示表出性が強い品詞が名詞である、というように。そして、自己表出の大きさが芸術言語の価値を規定するのだというのである。では、自己表出とは何か。なかなかズバッとは述べられていなかったように思うが、これはやはり、言語によって表現したい自分の気持ちということになるように思う。」


 つまり、吉本は品詞を自己表出と指示表出によって二分するというのではなくて、どの品詞にも自己表出性と指示表出性が含まれており、これら両者は「織物」のように言語のうちで織り合わさっているというように捉えているのである。そして、感動詞と名詞を両極として、指示表出性の強弱を論じているのである。これらのことは、三浦の創出した概念でいえば、自己表出というのは、主体的表現が基盤にあることは間違いないものの、それだけではない要素、つまり客体的表現にも含まれる「何か」が自己表出を形作る一端となっているのであって、その「何か」というのは、三浦のいう非言語表現である、ということを示しているのではないか。三浦は『認識と言語の理論』の中で、非言語表現にも主体的表現と客体的表現があることを述べているが、そうすると、「言語によって表現したい自分の気持ち」は、言語表現の客体的表現においても表し得るということになる。非言語表現に主体的表現を込めればいいわけである。とはいうものの、吉本のいう「自己表出」というのはそんな単純なものでもないようにも思う。もっと具体的に吉本の記述を見ていって、そこにどのような認識が表現されているのかをしっかりと辿っていく必要がある。「内臓」の問題などもよく分からないところもあるので、そうした点も含めて検討していきたい。

 もう1つは「言語道具説」についてである。これも結論からいえば、言語は素材を組み立てて作るものではなくて、像を伝えるべく創るものである、そして前者の考え方が「言語道具説」であり、後者は私が創出しようとしている科学的言語学体系に基づく言語観である、ということである。もう少し言葉を加えれば、言語は素材を組み立てるという意味で「作る」ものではなく、自らの像を相手に伝えるべく新しく生み出していくという意味で「創る」ものである、ということである。この違いがどのようなものになっていくのかといえば、素材を組み立てて言語を「作る」という言語道具説の立場では、もともとの素材にある意味(三浦の言葉でいえば「意義」、宮下眞二のいい方では「一般的意味」)しか言語は持っていないということになってしまい、それらの単なる組み合わせでしか自分の認識を表現できないという、硬直した言語観になってしまう。素材は自分とは別にあらかじめ用意されているのであって、その形式の数(種類)はもちろんのこと、そのそれぞれの形式に含まれる意味も、言語を使う(=「作る」=組み立てる)前から既に決まってしまっているということになるからである。しかし、現実の言語を見れば、自分の思いをのせるために言語を創造しているのであって、これは今、私が書いている「言語」でも、アリストテレスが「ト・ティ・エーン・エイナイ」と書いた「言語」も同様である。故に、言語は「創る」ものであって、創られた言語の意味は、三浦のいう「意義」を中心に含んだ一定の広がりがあるのであって、そこを観念的二重化によって正確に辿っていく(「創像」する)ことが、言語の意味を理解したということになる。「言語道具説」に関しては、科学的な言語観との対比で、概ね、以上のようなことを考察したのであった。





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最終更新日  2018年03月07日 12時15分03秒
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ガラスの玉は、本物の真珠をきどるとき、はじめてニセモノとなる。

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孤独を恐れ孤独を拒否してはならない。名誉ある孤独、誇るべき孤独のなかでたたかうとき、そこに訪れてくる味方との間にこそ、もっとも深くもっともかたいむすびつきと協力が生まれるであろう。また、一時の孤独をもおそれず、孤独の苦しみに耐える力を与えてくれるものは、自分のとらえたものが深い真実でありこの真実が万人のために奉仕するという確信であり、さらにこの真実を受けとって自分の正しさを理解し自分の味方になってくれる人間がかならずあらわれるにちがいないという確信である。

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