キリスト
「ただいま!」と帰ってきて私が一番さきにすることは子供達のカバンをあけることです。カバンをあけて、プリントが入っていないかどうか、今日はどんな勉強をしたのか、それをみるのが、私の日課。チェックといったら、教育ママみたいにかっこいいけど、そんなんじゃなく、ただ、楽しみであけるんです。なんていうかなぁ。子供達が私のみえないところでどんなふうに時間をすごしたのか、おすそ分けをいただくっていうのかなぁ。そんなかんじ。特に先生からのお手紙(学級通信)なんかが入っているととても嬉しい♪昨日は、次男のカバンに厚めの本が2冊入っていました。図書館から借りてきたのでしょう。一冊は、ゾロリ。で、もう一冊はなんと。。。「キリスト」でした。また、表紙に書かれているキリストの顔がジャックスパロウにクリソツ!私がぱらぱらと本をみているともっちが「あ~~!!それね!!すっごくおもしろいんだよ。読んでいて夢中になっちゃった!今日寝るとき読んでね!!」ですって。幼子のように。。。ってイエス様がおっしゃっていたけどもっちのその素直さに心打たれました。夜寝る前に読んであげたけど、結構掘り下げて書いてあって途中でふわぁ~~~と、大あくびをしているもっち。でも、大好きなイエス様の本が学校にあったのが凄く嬉しかったのでしょう。「明日もよんでね!」と。貧しい人、虐げられている人を愛し平和をといて、愛を語ったイエス様。イエス様の生涯を子供と一緒に読んでいく一週間になりそうです。親知らず。。。まだ痛いんです。そう、歯茎全体がどよ~~んと重くて頭もいたくて。。。昨日は、ワインを少し飲んじゃったせいか、寝る前もまだひかず。。。鎮痛剤を飲んで寝ました。今日も、まだいたむ。。。ネットで検索していると、親知らずの抜歯ははやければ早いほうがいいそうですね。痛みも軽くすむそうです。長男は夜中に腹痛で一度起きてまた、家をでるときも少しおなかが痛いといってでていきました。ずっと、仮入部でサッカーを頑張っています。足の裏も凄くいたいといっていました。保健室から電話が来るかな。。。とおもい待機していたけどどうやら、大丈夫かな。。。?買い物に行ってこようかとおもいます。明日は次男の野球の試合。私は中学の委員会。休日モードにはなかなかならない我が家です。^0^今日の聖書箇所マルコによる福音書から9:43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。解説弟子たちに示された自己吟味の重要性がここには教えられています。もし、あなたの手や足や目が「信仰を妨げる」のであれば、それらのものを切り捨ててでも「いのち」にあずかり、「神の国」に入れるほうが良いとイエス様は教えました。もちろん、これはたとえです。でも、たとえであるなら、単に「切り捨てろ」というのとは違うメッセージがあるのかもしれないと,私は感じます。つまり、これを実行しなさいと提示しているわけではないのです。むしろ、「私の中には切り捨てなければならないような手足が存在します」ということを素直に認めることからはじめなければいけないということなのだと思うのです。つまずかせるという作業は多くの場合、悪意や優越感から起こされるものです。心の中の優越感の最大のものは、私には悪いところなど全くないという発想でしょう。そこに落とし穴があるのです。「切り落としたくなるような手や足を持っています」とイエス様に言えた時、それだけで私たちの心は軽くなるのです。誰もが持っているジレンマ、それが「清濁併せ持っている自分」です。キリストを信じて清くなりたいと願う自分と、相変わらず後ろ向きにさせる自分があるのです。そういうジレンマの中に生きているのが人間であり、きっぱり、さっぱりできるのはこの地上のいのちが終わってからなのかもしれません。キリストのメッセージは「生きるように」というひと言に尽きます。生きる道を選ぶことこそ大事なことなのです。「切り落としたいような足や手をもっている私がここにいます」と認めること。キリストはそれでもいいから、ついて来なさい。悩みながら、泣きながら着いてきなさいと招いておられるのです。「重荷を負って苦労している者は私のところに来なさい。私が休ませてあげよう」というキリストの言葉は私の手足を切り落とす代わりに、キリストが御自分の手足を切り落としてくださろうとしている決意の言葉でもあるように聞こえます。うれしいことです。ー関根一夫先生よりー