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カテゴリ:軟弱日本を斬る!
前回からの続き。
☆ ☆ ☆ 「長州へ落ちのび今では九州大宰府の三条卿以下の復位。正式に岩倉具視の処分解除」 そして、その日新帝の母方の中山忠能卿は、土佐の陸援隊へ高野山を占拠するため出動させて、御三家の紀州藩の牽制をさせていた。 薩摩の大久保から、 「御玉音で、勅許がおりた」と発表された。 だからして大村益次郎のごとき単細胞は、「・・・・まったく訳が分らん。御国(長州)はどないになるんじゃろ」と眉をいかめ考えた。 12月9日。徹夜の会議がすんで徳川慶喜が退出した後、岩倉具視が参内して、はっきりと、「王政復古」を奏請した。帝はまだ幼少。朝までは和平会議だったが、恐い顔をした岩倉具視に奏上されると、脅えたように、「あッ、そう」とだけ言われたという。 大阪から御所へ参内した徳川慶喜は、なんとかして平和的にと会議している間に、薩摩の大久保と岩倉がどんどん戦争の用意をした。 「まるで平行線じゃ。どうなるんじゃろうな」大村益次郎も双方の情報をきき迷っていた。 しかし岩倉と大久保は三井に命じて銀の有るだけを出させ、土佐だけでなく安芸の広島から尾張、越前といったインフレで困惑している雄藩に、みな金のクツワをかませた。 よく、義理と人情をハカリでかけりゃ、義理が重たい男の世界と唄にまでされている。が義理とは困った時に金を貰ったり、その金で助かることである。人情とは単なる感情である。つまり感情より勘定の方が重いというのである。雄藩連合が三井の銀で成功した。 小栗上野介の信任をえて弾左ヱ門家や徳川家の一切合財を押さえていた三野村利左ヱ門を迎えて番頭にした三井は、その金を逆に岩倉へ廻し討幕資金にし鴻池を蹴落した。それも現銀でなく為替紙を発行してあてた。 「土佐の山内容堂侯は内ゲバせんとなんとかまとめようとしたというが、西郷が凄い目つきで、文句があるなら徳川より土佐を先に血祭りにあげると脅かした。海援隊はあっても坂本が死んでは何も期待できんし、陸援隊も中岡なき後は薩摩の傭兵化して中山卿についている。土佐も仕方なくうなづいたそうだ。いったい、どうなっとるぞなもし・・・・」 「西郷や大久保といった薩摩っぽは恐わい。どこまで彼らはやるか見当もつかんでいかん」せっかく兵庫まできたが、大村にはどうしようもなかった。桂小五郎も同じだったろう。なにしろ御所でも、大騒ぎだったから。 いつの世でも黒幕の力はもの凄いもの。京の二条城に会津桑名の兵と共に一万の精鋭はいたが、徳川慶喜はやむなく京を引き払い大阪城へ入った。もはや京には幕軍の手の者は新撰組すら伏見へ追われていなかった。 「このまま、もたついては如何でごわすか」西郷吉之助はすぐさま江戸へ薩摩屋敷にいた千葉門下の相楽総三に早飛脚をたてた。 「すぐさまに事をおこせ」との命令である。親の金で同士を集めていた相楽は直ちに、「よし、やっちゃる」と庄内藩の支藩屋敷へ鉄砲をうちこんで挑発。酒井の侍どもは勢揃した。 そこですぐ、「もう我慢ならん」と25日に三田薩摩屋敷へ焼討ちをかけた。28日に大阪へ急報された。 「もう我慢の緒がきれた。薩摩討つべし」と大阪城に集結した旗本や諸兵隊、それに会津や桑名の兵は激してしまい、慶喜は、「討薩表」をかかせ大目付滝川土佐にもたせて島津忠義へ詰問使をだすことにした。まんまと西郷大久保岩倉ラインにのせられた。 「高杉は世の中に恐いのは西郷隆盛じゃ言うて、いくら逢おうと求められても嫌がって、逃げていらしたのにああした恐かおひとについて戦ばするのは、どうでしょうな」と、あまり気の進まぬ大村益次郎は、「わしゃ出んでもよかでしょう」と口にした。 「大村さん・・・・とうとう来るところまできたぞな。ああたは三兵塾で育てた士官らに歴戦の諸隊の兵を、薩摩の言いなりに出して味方してつかあさい。それしかあかへんぜ」と顔をしかめつつも、桂小五郎は口にした。 「うん、しかしそうせなお国の長州が、後で西郷や大久保にどない目に逢うか分らん。まあ品川弥次郎が来とるけん。あれに指揮させて、薩摩の尻にくっついて行くしか、他には何もあり申さん」と桂小五郎は神経質に目をまたたかせ、ぶすっとした木村を諫めた。 その頃、岩倉具視も大久保一蔵や西郷へ 「おはんらの薩摩の殿さまが、〇に十の字の旗をたてて天下統一したら、公家は一体全体どうなるんじゃ」とやはり危惧していった。 「まあ、そのことなら西郷どんに任せて貰わな、いかんでごわしょう」 と大久保は薄笑いを浮かべて、ぬらりくらりとしてみせた。 「すると次のえらい様は徳川に代わって、薩摩の殿さまが天下をとり、鹿児島がお江戸にとってかわるんですかのう」とずんぐりした身体を折りまげるようにして率直に大村は尋ねた。 しかし桂小五郎は蒼い顔で無言だった。 当の西郷も、ただ笑って大きくうなずき、「よかしますでごわしょう」力強くいった。「なら一国一城は貰えるな」岩倉も答えた。しかし島津の殿さまは、二百五十年続いてきた主従関係をあくまで信じきって疑いをもとうとはしていなかった。 「西郷や大久保は世が世なら目見得以下の下賎な者らであるが、このたびの天下創業の働きはアッパレじゃなかか」と口にして、笑った。 「天下平定のあかつきには西郷には10万石大久保には5万石ほどの城持ち大名に取立てやるに、ヤブさかではない」といった。「有難き仕合せ・・・・」小松は平伏して答えた。 慶応四年1月3日。討薩表をもって島津の本陣へ向かおうとした滝川土佐守は、鳥羽伏見で薩長兵に阻止された。随行の旗本共は、「将軍家に対し奉って非礼である」と息まき実力で強行突破しようとした。 が、「ババーン、ババーン」と伏せの構えをしていた散兵線の餌食にされてしまった。侍どもは「イモや長州の木こりに負けるな」と先祖伝来の槍のサヤをとって突入したが、近づく前にバタバタみな撃ち倒されてしまった。 なにしろ薩長兵は三千余りでも、銃は南北戦争でグラント将軍が押収した南軍の元込エーゲー銃。硝石も新しい払い下げ火薬である。てんで戦いにもなにもならず滝川土佐は「かくなる上は斬りこめ」と叫ぶのみだった。 処が滝川土佐についていった旗本共が持っていたのは江戸から担いで来た火縄銃。火薬は大阪天満に積んであった寛永時代からの湿気をおびたもの。撃っても鉛玉が転がるだけ、まるで小石をぶっつけているみたい。 鳥羽伏見での敗戦が伝わってきても、「味方は三万から四万」「敵は僅か数千なり」大阪城内にあふれた幕兵はいきまいた。しかし徳川慶喜は、硝石が古くて不発と呑みこむと、夜にまぎれ小姓に化けて乗船。 「追手に帆かけてシュラシュッシュ」とは、蒸気船ゆえ言わずだったろうが品川へ帰航。もちろん表向きは火薬で勝負にならぬ故とは発表せず、恭順のためと引きこもった。 12月18日になると桂小五郎は「徴士」の名で上洛を求められ、総裁局顧問を拝命した。 薩摩は、島津の殿さまの命令なりと、「徳川慶喜を死罪」と強硬に西郷は主張。「ならば現在の八百万石を全額没収すべし」と大久保は言いはったが、桂小五郎は、「それは酷である。せめて百万石」と主張。 しかし薩摩派は、島津の殿さまを棚上げすることを桂に認めさせる事によって妥協した。 つまり長州も殿さま抜きで桂藩となり、西郷藩みたいな薩州と、黒幕の岩倉や大久保の指示で動いた。大村益次郎は呆れ返った。 「新撰組が陣地にしたから大半が焼けとる」 ご親兵士官にするために、伏見奉行所で各藩よりの徴兵教育をいいつけられた大村はくさっていた。当人としては桂小五郎が(もうちょっと良い役をつけてくれても可)といった不満はあった。しかし5月に入ると桂から、トウキョウと改名された江戸へと急使がきた。なんだろうと単身品川へゆけば、「上野の山に浮浪がたてこもっとる。おまさんが退治するようとの桂さんの意でごわす」迎えにきていた者から突然もち出された。 小男の大村益次郎は肉体的に圧迫感を催おすのか西郷をさけていた。話もせずだった。 (西郷は金持息子の相楽総三に人集めさせて御用盗に使い・・・薩摩屋敷焼討ちの際の生き残りは東山道軍の尖兵にし、信州で旧悪発覚と、皆殺した冷酷無惨な男)と怖れていたのだ。 「いくら、勝海舟が芸妓だった女房の前の旦那から借りた金で、安くに旗本屋敷をみな買い叩いているから総攻撃はせんでくれと頼んできとっても、一戦もせんでは不可でごわす」西郷はわざと上野に旧幕臣共をあつめさせ、「ゴミば溜まったら焼く」と戦線布告した。 (西郷一人にやらせたら後で長州の立場がのうなる)と桂は京から、大村を至急よばせた。死んだ高杉同様に西郷嫌いの大村益次郎は、「ハヤト国独立の手伝いなど・・・・」と、いやがるので桂が西郷と交渉し彼を司令官にした。それでも大村はむっつりし不愛想だった。 雨の中でワラジがけで出陣する西郷を見送ろうともせず、大村は江戸城の中にいて、「薩摩苦戦・・・」と伝わってくるとニヤリとし、「鍋島のアームストロング砲ばうたせえ」と命令し一瞬にして上野を焼野原にした。 西郷の面目は丸つぶれにしてしまった。「東北の総司令も長州側となった」と、桂は喜び大村益次郎の手を握りしめた。西郷は面白くない。そこで、有村俊斉こと海江田信義は、やがて京三条小路の大村益次郎を襲撃させた。下手人共が粟田口刑場で斬られる寸前、「弾正台より御命令だ」と彼らを逃がしたのだ。 大村暗殺の一月前の明治二年六月に二千石。ついで西郷は功により正三位。四年には、政府参議翌年七月には薩軍元帥近衛都督に昇進。 「西郷や大久保めは代々の君恩を忘れ吾が島津の、国力を利用し、独立するとわしを乗せだましくさって立身した」と久光は激怒した。 が西郷は出世し威張っていたのではない。 「日本がだめなら朝鮮半島に〇に十の旗を」と、前殿さまの久光に進言、慰撫していた。しかし同じ加治屋町生れの大久保利通が、 「今さら旧主のための征韓論でもあるまい」 とてんで相手にせずまっこうから反対した。 かねて新政府にあきたらぬ土佐の板垣や後藤それに佐賀の江藤新平も共に辞任した。薩摩出身の昔気質の者は、旧主の為に、身を殉じて帰る西郷についてぞろぞろ帰郷した。鹿児島の北の寺山の丘に塾をたて、ついで西郷は私学校を作り各地に分校を設けた。 ☆ ☆ ☆ 字数制限を越えるので次回に譲る。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013年04月02日 16時10分57秒
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