カテゴリ:🔴 M【メモ・サブノート】
今日の日記は、他人様のブログへ書いたコメントを、自分の日記にするという魔術(ズルとも言う)という新手法??でお茶をにごそう。
■ ドイモイさんがこういうことを書いている。 > 少し悲しいことではあるが、文学作品というものをなかなか30歳を越えると読む気もしなくなったし、読んでも途中で投げ出したり、心ふるわせられることもなくなった。 しかし、世界的名作というのは、有名だから感動する場合もあって、 これには同感。 若い頃には結構小説も読んでいたのだが、歳と共にノンフィクション率?が高くなっている。 > ジョイスのフェネガンスウエイクなんか、18行ぐらいで投げ出した。 私など、トライもしていない。 どうせ読めない上に、世界一難解な小説だから。 ただ、同じジョイスの「ユリシーズ」は、高校時代、かなりの興味を持って読めた。 それなりの感受性が「当時は」あったのだろうと思う。 ユリシーズもそうだが、ジョイスは「言葉オタク」で、あらゆる言語の単語を使用したり、果ては自分で造語したりしている。 これを読むのに、日本語という言語へ翻訳する意味が果たしてあるのか?その歩留まりは?と言うことについては、先ず訳者が書いた本を読まないと。 「辞書のおもしろさ」という本で(この題名だと思うが)この訳者がその苦労話をちょっと披露してくれている。 今は、ノンフィクションばかりだし、文学関係と言っても、句集や評論中心。 小説は、読めないのかどうか?とにかくノンフィクションの後回しだから、永久に読めないかな? ■ wa-kaさんが引っ越しするそうだ。 私は両親が死んだら、娘と一緒に東京に帰って、カギ一つあればいいマンション暮らしをしようと思う。 しかし、母がエサを与え(去勢してはいるが)、いまでは私に頼り切っている野良猫たちがいる。 おまけに、その中の二匹は家猫同然にまでなっている。 彼等に「食事時間ですよ~!}と訴えているつぶらな瞳で見つめられると、彼等・彼女等の今後を考えてしまう。 マンションでは、東京に連れて行くわけにも行かないだろうし・・・。 どうしたらいいのか? ネット友達の野良猫専門家に聞いてみようかな? ■ 作家さんが、韓国人の友人について書いている。 韓国人と言えば、私は最近、韓国人とつきあう機会があって、その中で感じるのだが、(例外はあるのだが)、韓国人は日本人と比較して、「いいかげん」、いいかえれば「おおらか」な民族性だと思う。 それに自己中心的で、責任感や気配りはあまり無い。 作家さんがおっしゃるように、「精密さ」も無い。 「ほうれんそう」(報告・連絡・相談)をしない。 (これでは、チームワークの仕事は出来ない) 気軽に人に頼み事をするが、日本人ほど感謝の念は表明しない。 あまり緻密に深く考えないで無謀だから(失礼)、果敢に(に見える)決断・行動する。 小さな商売なら、そのリスクをそれほど考えることなく、あっという間に始める。 日本人には、これは真似が出来ない。 ふりかえって日本人は、ボトムアップの精密な稟議書を関係者全員に回覧して捺印して、誰も責任を取らないで済む「共同責任」としないことには、何事も決断できない民族だ。 (考えてみれば、ホリエモンは韓国人体質かも知れない) これはやはり韓国人の、(全部ではないが、高句麗などの)遠い先祖の遊牧民・騎馬民族の血と考えていいのかな? 日本人の場合、農耕民族だから移動が出来ない。 だから、飛ぶ鳥後をにごすようなことは出来ない。 今は核家族・隣は何をする人ぞ、という社会になった日本だが、以前は先祖代々の隣人との人間関係において、義理を欠くことは出来なかった。 農業などの定着生活では、精密な仕事が出来る。 仕事の内容は、農業カレンダーに沿った農作業などのルーティーンのものが大半で、毎年同じ事をなぞって働けばいいのであって、特に大きな決断を必要とするものではない。 創造力もさほど要らない。 遊牧民・騎馬民族は、「移動してなんぼ」の世界だろうから、移動の日常で始終、小さな決断をしていかなければいけない。 決断に慣れているとも言えよう 農業・定着民の周りの世界は、当然のことだが移動しない。 しかしその定着した世界の中にも微妙な、subtleな、繊細微妙な変化があって、それを定着民は感じて、それを大きな変化と感じているのかも知れない。 当然神経はとぎすまされて、小さな変化をも見逃さない繊細な世界となる。 それに引き替え、遊牧民・騎馬民族の世界は、汽車の窓からながめる、流れゆく風景の様に次々と違うものが現れる。 その変化をおおざっぱに受け止めて、最大公約数的なものだけをすくい取るのだろうか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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