カテゴリ:J【日本】での想い出
「門松や 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
昨日の日記に、正月になるとドクロの突いた杖を突いて町を練り歩いたという一休禅師のこの警句を書いたが、私は小さい頃に、この話の載っている絵本を持っていて、ドクロ杖に編み笠をかぶった一休禅師が墨色の僧服で歩く姿の絵の記憶がある。 この正月は昔の正月だから、人々は自宅にこもり物音一つしない世界だっただろうから、余計に一休禅師の奇行が目立ったに違いない。 こういう正月テーマの日記はやはり、三賀日の内に書いた方がいいだろうと思って書いてみる。 私の想い出の中にある、古色蒼然とした、旧い、昔の日本の正月の姿なのだけれど、それを知らない、純正日本製品ではない私の娘のためにも書いておこうか。 私の子供時代の昔の正月というものは、「神を迎える」という正月の基本姿勢に則っていて、正月というものが本当に特別なものだった。 「もういくつ寝るとお正月」という唱歌?があるが、当時の正月と言えば子供にとっては、本当にワクワクしながら待つ(時には興奮で寝付きが悪かったほど)一年最高の行事であり、特別な雰囲気のある時間や空間に包まれ、ふだんに無いご馳走であるおせち料理を食べられ、お屠蘇を戴き、酸っぱく渋い生ワインをすすり、甘くて美味しい「赤玉ポートワイン」も戴ける天国であった。 正月のおせち料理は、祖母と母によって晦日ぐらいから作り始められて大晦日には完了。 お餅も家庭で撞いた。 大量の餅米を蒸してそれを撞いて餅を作るのである。 餅つき用の大きな石臼と木製の杵(きね)が、当時はほとんどの家庭にあっって、大晦日あたりは隣近所で「ペッタン ペッタン」という音が響いたものだった。 杵を撞くのは祖父や父であり、餅をこねるのは祖母と母であった。 つきたてのお餅は木製の箱のようなものに入れられて重ねられる。 柔らかで暖かで、すぐにでも食べたいのだがなかなか食べさせてもらえなかった。 その餅も、白い餅ばかりでは無く、ヨモギを入れた草色のものや、紅の食品顔料を入れ炊いたのだろうけれど、桃色のものがあって、さらに小豆などが入った餅も作られた。 正月のお供え餅も、多分、自家製だったと思う。 お正月を控えて、どの家も大掃除をした。 当時は家具なんてほとんど無いし、油ものの料理もせいぜい天ぷらぐらいだったから、大掃除も楽だった。 箒で畳を掃いて、障子や家具にはたきを入念にかければそれで終わりである。 確か畳には日本茶の出し殻とちぎった新聞紙を濡らしたものを撒いた。 そうするとゴミがよく取れたのである。 年越しそばを食べ、紅白歌合戦をラジオで聞きながら(と言いながらあまりハッキリした記憶は無いが)、時は経って、やがて除夜の鐘が聞こえ出す。 その時にはすでに和服姿に変わった祖父と父が庭に出て、鐘の鳴る方向に手を合わせていた。 まあ、このころには、まだ幼い子供であった私だから、すでに子供時間の限度を過ぎていて、多分、布団の中で白河夜船状態であったはず。 それにしても、子供時代の私には夜更かしが出来なかった。 9時頃になるともう眠たくて仕方がないのである。 == 続く または 翌日の日記に続く == お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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