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ハワイ道中記は、後ほど書くことにするが、おもいつきなのだが、ちょっと書きたくなったことがある。
私が理解できないことのひとつに、よく騒動の渦中の人物が「謝罪」する際に、『世間をおさわがせして、申し訳ない』というセリフを吐いて、深々と頭を下げて「謝罪」することである。 私が考えるに、「謝罪」すべき事は、「世間をさわがせる」では無く、実体のある犯罪なり、それに近似した行為であるはずである。 一応、日本人の好きな「決まり文句」なんだろうけれど、こんな事を「言う」または「言わなければならない」状況があるのが日本独特だと思うのだ。 犯罪そのものに加え、「世間をさわがせた」罪というものが、法体系にはないが、日本の「社会通念」の中にある「罪」なのである。 いったい、外国において、外国人の犯罪者が『世間をおさわがせして申し訳ない』などと、謝罪するものだろうか? あるブログにこういう一節があった。 ● ある人が『日本人の罪の意識は【世間の皆様おさわがせ罪】だけだ』と言われましたが・・・ なるほど~、本当にそうだと思う。 日本人にとっては、その犯罪を犯した罪の意識より、被害者への謝罪よりも、まず『世間様』に対して謝罪することの方が重要で本質的なことであるようなのだ。 ~~~~~~~~ 世間を騒がせると言うことは一体何で、どんなに申し訳ない罪なのだろうか? 私からすれば、「世間が騒いだ」ことなど、そのほとんどの場合、世間やその代表者であるところのメディアは、その被害者ではなく、むしろその犯罪または準犯罪行為の発生を、大いにはやし、騒ぎ、いろいろ論じて、楽しんだものだと思う。 例えば先日の亀田問題である。 実質的に、亀田の反則や、公序良俗に反する一家の言動(笑)が、一体だれに被害を与えたのか? 対戦相手の内藤選手には反則という被害があったが、それは私が主張するように、リング上でレフリーによって3ポイントの反則をとられている。 つまり、リング上で反則に対する処分は終わっているのである。 処分済みなのである。 それに内藤選手も3ポイントもの反則点をもらって大量リードとなり、あとは足を使ってアウトボクシングさえすれば、勝利は間違いないものになったのだから、ありがたいことでこそあれ、ディメリットはほとんどない。 まあ、強いて被害者と言えば、酒も煙草もやらず、身を削って減量をしながらランキング・アップを願って激しいトレーニングを続けている一般のボクサー諸君である。 ~~~~~~~~ 蛇足だが、私はボクシングこそ、最高のスポーツだと主張する者の一人である。 私が幼児・少年期に、将来なりたい職業として考えていたものは ○ モダンジャズ・プレイヤー ○ 探検家 ○ ボクサー なのである。 野球選手にはなれないことがわかっていたし、機関車の運転手を夢見るほどには幼くもなかった。 そもそもボクシングは、スポーツの原点だと思うのだ。 ボクシングは、「肉体でもって競う」と言う、スポーツの原点ではないか? 『売春婦』が人類の歴史の中での最古の職業だといわれる。 原始人の男が毛皮の衣類をまといながら、こん棒をふりまわしながら同じく原始人の女性を追いかける・・・というシーンは、一コマ漫画の常道であるが、中には、そういう精力がありあまった男を相手に、『営業』をした女性もいて、それが最古の職業として今に至る『発展』に至ったのだろうと思う。 ・ ・・とすれば、人類最古の職業とは、男性ではなく、女性によって開発されたものだということになる。 う~~~ん! 女性は偉大だ。 ・・・ということは、それはそれとして、その時代のスポーツと言えば、争いやケンカから発展した原始的なボクシングだったと思う。 相撲やレスリングも同時に生まれたか?と思う人もあるかも知れないが、理論的に言えば、ボクシングの方が先だと私は思う。 先ず、手が出て、殴り合いの「ボクシング」になり、それで決着が付かない場合に、亀田(弁慶)大毅のように相手を投げ飛ばし、それが相撲やレスリングになったはずだ。 まあ、そんなことはいいのだが、古代ギリシャのオリンピックにも、やり投げ・円盤揚げなどに加えてボクシングが公式競技なのである。 それに、ボクシングは、野球やサッカーなどとちがって、道具を使わないスポーツである。 人間の肉体だけで競うスポーツである。 やはり、スポーツの原点にまちがいはない。 ~~~~~~~~ ボクシング賛美はこれまでにして、日本人が、グローバル・スタンダードに反して、実害の無い『世間を騒がせる』罪を、どうして糾弾したがるのであろうか? なぜ、日本人は、そのものは罪でもない『世間を騒がせる』ことを責めるのだろう? こういう疑問が生まれてくる。 糾弾するのは、『世間を騒がせる』ことがけしからんと思っているからだろう。 『世間を騒がせる』事は、法的に違法ではない。 敢えて『世間を騒がせる』罪を法体系に探してみると、騒乱罪に行き着く。 騒乱罪(そうらんざい、刑法106条)とは、多衆が集合して暴行・脅迫を行うことにより公共の平穏を侵害する罪である。 しかしこれは『多衆』が『集合』して、『暴行・脅迫』を行うものである。 例えば目的を持って組織された暴力的なデモのようなものである。 しかもこのことにより、『公共の平穏』を『侵害』することが要件である。 例えば、戦後の三大争乱事件とは、下記のものだという。 血のメーデー事件 大須事件 吹田事件 しかしである。 私の取り上げている「世間を騒がせた罪」は、騒乱罪の要件を満たすようなものではない。 特に『公共の平穏』を侵害するものでもない。 多衆・メディアが、『さあ! また面白い事件が起こったぞ!』と、舌なめずりをしながら熱中するスキャンダルに過ぎない。 『世間』は『騒がされた』事で被害者になったわけでもなく、憤激しているわけでもなく、実はその真逆であり、その事件を大いに楽しんだのである。 とすれば、『世間を騒がせた』犯人が、謝罪する必要など全くないはずである。 世間を楽しませて、エンターテイナーとなったのに、頭を下げて、神妙な表情を作って、謝ることなど全くないのである。 とすれば、なぜ『世間』は、『謝罪』を求めるのか? 私の私見であるが、 徳川の太平の世の中で、『世の中を騒がせる』ことは最大の罪であった。 厳しく責められ、処刑されるべき事であった。 なにしろ徳川幕府は、豊臣勢力を制し、天下を取った後、超長期政権をめざした。 そのためには、大名を、親藩・外様などに区分けし、鎖国令を敷き外国勢力も締め出して、士農工商の厳しい身分制をしき、ひたすら平穏無事を願った。 そのためには、農民に五人組などの密告・共同責任組織を強い、ほんの瑣事でも問題が起こらないようなシステムを構築した。 そのせいで、長い徳川の御代は、戦乱に明け暮れた欧州とはちがい、世界史にもまれな、戦争のない平和な時代を実現したのである。 加えて日本は基本的に農業本位の国であったから(以前にも言ったように江戸時代の士族の人口はたかが4%似すぎない)、武士の知行も石という米の収量で規定されていたほどであるから、あえて言えば、百姓の世界である。 百姓の世界・農業の世界は『異常』が起こってはいけないのである。 もし異常気象が起これば、農業は痛手を被る。 毎日、毎週、農業暦にしたがって、決まった作業を決まったように進行させなければいけない。 気象以外にも『異常』がおこって、『世間が騒がしく』なり、百姓が農作業に集中できなくなったり、田畑を捨ててしまっては農業本位の体制が成り立たなくなる。 ・・・と言うことで、(ちょっと強引かな?)、例えそれが犯罪でなくても、平穏な世界を騒がすような事件は、糾弾されてしかるべき事なのだ。 その意識が長い間にわれわれ日本人のDNAに組み込まれ、例えそれが犯罪でなくても、実害の無いことでも、みんながそのスキャンダルを楽しんでも・・・、『世間を騒がせ』ることは、『けしからんこと』なのである。 その他に、ルース・ベネディクトの指摘した日本人の恥文化というものも、影響しているのかも知れない。 『たとえ犯罪では無くとも、世間を騒がせるなど、恥を知れ!』という意識が『世間』にあるのだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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