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武士起源論 ウィキペディア
少し前、テレビで 司馬遼太郎の「この国のかたち 第2巻」 についての番組を見て 武士、と言うものについて,触発された ついでに「この国のかたち 全六巻」を購入した 幼年期、私は母方の祖父母と一緒に育ったが 祖母は非常に士族意識が強かった よく「私は,士族の人間ですから」と言い放っていた 高等教育においても首席 すべてにおいて、澟としていた この祖母に限らず、私の家系はほとんどが士分である 武士だったのである ただ、武士と言えば聞こえがいいが 明治維新では、 突如、俸禄もキャンセルされ、支配階級から放り出された不運な人々でもある 一方、明治政府の要職に就いた武士達はほとんどが 下級武士か,その下の足軽階級 武士階級の内部での逆転現象が起こったのである ウィキペディアから引用すると ― ― ― ― 武士の身分を「士分」といい、士分は、大きく「侍」と「徒士(かち)」に分けられる。これは南北朝時代以降、戦場への動員人数が激増して徒歩での集団戦が主体となり、騎馬戦闘を行う戦闘局面が比較的限定されるようになっても、本来の武士であるか否かは騎馬戦闘を家業とする層か否かという基準での線引きが後世まで保持されていったためである。 「侍」は狭義の、つまり本来の武士であり、所領(知行)を持ち、戦のときは馬に乗る者で「御目見え」の資格を持つ。江戸時代の記録には騎士と表記され、これは徒士との比較語である。また、上士とも呼ばれる。「徒士」は扶持米をもらい、徒歩で戦うもので、「御目見え」の資格を持たない。下士、軽輩、無足などとも呼ばれる。 「侍」の内、1000石程度以上の者は大身(たいしん)、人持ちと呼ばれることがあり、戦のときは備の侍大将となり、平時は奉行職等を歴任し、抜擢されて側用人や仕置き家老となることもある。それ以下の「侍」は平侍(ひらざむらい)、平士、馬乗りなどと呼ばれる。 ― ― ― ―明治維新の主役達が主に下級武士とは、皮肉なものである 武士階級の中の上下関係は相当なものだったという 土佐などでは、下流の郷士は、上級武士と出会うと 道端に下がり土下座したという 私からすれば、自分達が下級武士だからこそ 明治維新という革命を起こしたのでは無かろうか? 司馬遼太郎は 日本人の精神の土台は武士の精神であると言う それはそうかも知れないが 江戸時代の武士の人口比は、たかだか、5%前後にしか過ぎない 残りは、農工商、つまり,農民であり、工芸職人であり、 あとは、士農工商の埒外の人々である わずか5%の支配階級・テクノクラートたる武士が 残り95%の人間に多大な精神文化的インパクトを与えたとすると これは、世界史のなかでも、文化的な大事件かも知れない 私の母が女学校時代、通知簿には、なんと、身分欄があって 士族と平民に別れていたそうである 母は士族だったが,士族はあとひとり ほぼ、武士の人口比5%と符合する 今の戸籍制度ではない古い戸籍制度では 身分が詳しく書かれていたそうで それは差別の原因にもなると言う事で廃止されたらしい ちなみに、韓国の両班(やんばん)は 日本の武士階級に相当する階級であるが 階級そのものが売買されたりで 両班インフレになり(笑) 人口比では,最高、50%近くになったそうである いずれにしても、武士について調べて見ようと思うので とりあえず、武士とはなにか?ということで まず「武士の起源」について ウィキペディアを引用してみた その引用は,次の記事で お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017.03.05 21:47:40
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