ホロコースト(ウィキペディア) 奥山太郎氏の「論壇」への寄稿記事によれば タレントのパックン(パトリック・ハーラン氏)が 韓国との旭日旗論争に関して テレビで以下のような発言をしたという 「日本はホロコーストをやったドイツと同等。 したがって相手が嫌がっている旭日旗の持ち込みを禁止すべきだ」 「そう我慢するのが日本人のおもてなしの心でしょう」 ネット上では、このパックンに対して「反日芸人」として 激しい反発が巻き起こっていた 今はどうかな? いずれにしても ハーバード大卒の超インテリ米国人という肩書でTVで大活躍中のパックンが 「日本はホロコーストをやったドイツと同等」と断罪なさるのだから その「ホロコースト」なるものを調べてみようではないか? さもないと、我々は、パックンを糾弾できないではないか? 果たして当時の日本は、パックンの言う通り 当時の朝鮮人に対して 組織的な、絶滅政策・大量虐殺 という大罪を犯したのか? 私個人の意見としては 日本は朝鮮を当時の国際法に基づいて併合したわけで 朝鮮を軍事的に侵略をしたわけではまったく無い また、欧米列強の植民地政策とは異なり 搾取一本やりの植民地政策どころか 日本の国家予算的な巨額な投資を朝鮮に行い その結果、朝鮮は、日本の38年間という短期間の併合期間において 〇 人口は倍増 〇 鉄道などのインフラの建設 〇 教育制度の整備 等の大きな成果を上げている もちろん、朝鮮国民側からすれば そのような経済的メリット以外の 民族的プライドの問題が大きいことは認める しかし、組織的な絶滅政策・大量殺戮などは、全くなかった たった38年間に国民の平均寿命が倍増するという事は 経済的にも栄養的にも、とてつもなく豊かになったという少佐であり 欧米列強の植民地ではあり得ない事であるに違いない ましてや ナチスドイツのユダヤ人に対するホロコーストと比較するなど パックン、頭がおかしいとしか言いようがない むしろ、ホロコーストと同様の事を日本に対して行ったのは パックンの母国である米国ではないか? ● 広島・長崎への二度にわたる原爆投下 ● 東京をはじめとする日本の大都市への無差別爆撃 これらによって、日本の非戦闘員=民間人が100万人近く虐殺された 私の曽祖父を含む親族も犠牲者である これは明らかに国際法違反である パックン! これはどう説明するのだ? という事で 「ホロコースト」 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ホロコースト(ドイツ語: Holocaust、英語: The Holocaust: フランス語: La Shoah、イディッシュ語: חורבן אייראפע、ヘブライ語: השואה)は、 第二次世界大戦中の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)率いるナチス・ドイツが ユダヤ人などに対して組織的に行った絶滅政策・大量虐殺を指す。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88 ーーーー また、ホロコーストのグーグルの説明は下記 ホロコーストとは、ナチス政権とその協力者による約600万人のユダヤ人の組織的、官僚的、国家的な迫害および殺戮を意味します。 「ホロコースト」は「焼かれたいけにえ」という意味のギリシャ語を語源とする言葉です。 ーーーー また、グーグルで「ホロコースト」と、ググれば ホロコーストの大量の映像を見る事ができる
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ホロコースト ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88 (2020.10.06 14:05:28)
ホロコースト
(英語表記)Holocaust ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 ナチスによるユダヤ人大量虐殺。 もとはユダヤ教の供犠(燔祭)を意味する。 ドイツのユダヤ人に対する迫害は,1933年1月のアドルフ・ヒトラーの首相就任 1ヵ月後に始まり,ユダヤ人の商店は不買運動にさらされ,破壊され,公職者は地方政府,裁判所,大学から追放された。1933~38年の一連の立法措置や財産の没収,暴行,略奪により,ドイツのユダヤ人社会の政治的・経済的基盤は崩れた。1935年のニュルンベルク法によりユダヤ人は市民権を完全に失い,1938年11月のいわゆるクリスタル・ナハト(水晶の夜)の結果,ドイツにあるすべてのユダヤ教会がその他のユダヤ関連施設とともに破壊された。その後,数千人のユダヤ人が強制収容所に入れられ,ドイツのユダヤ人資産の主要部分は,巨額の罰金やその他の取り立てによって没収された。1939年,第2次世界大戦が勃発する頃には,ユダヤ人はもはや市民でなく,公立学校に通えず,実際いかなる商売,職業にもつけず,土地を所有できず,非ユダヤ人と一切交際できず,公園や図書館,博物館への出入りも禁じられ,ゲットーに住むよう命令された。 1938年までに,ファシスト政権下のイタリアはドイツをモデルに,反ユダヤ法を発布した。1938年のオーストリア,1939年のチェコスロバキアに対する征服,併合は,両国のユダヤ系国民の隷属へとつながった。反ユダヤ主義的社会背景をもっていたハンガリーは 1938年,ヒトラー方式をモデルにハンガリー初の反ユダヤ主義立法を行なった。ルーマニアでは 1939年末までに,ユダヤ人人口の 3分の1以上が公民権を剥奪された。さまざまな社会的,政治的勢力は,ユダヤ人やその他ヨーロッパの被抑圧マイノリティの支援に立ち上がると期待されたが,彼らは行動に出なかった。中部・東部ヨーロッパの学生団体は,自由主義者との共闘を拒否し,自由主義的諸政党はみずからが粉砕もしくは弾圧の対象にされていた。教会の抵抗はゼロではなかったが,無力で,一部の聖職者は明らかにその当人が反ユダヤ主義者であった。ユダヤ人の多数派は移民を希望し,1931~41年にかけて,約 16万人がアメリカ合衆国へ移り,イギリス支配下のパレスチナへも数万人が脱出している。大戦初期にドイツ軍が連戦連勝した結果,ヨーロッパのユダヤ人の圧倒的多数はナチスとその衛星国の支配下に置かれ,人権は剥奪され,資産も没収され,大半がゲットーや強制収容所へ移動させられた。 ドイツ軍がまずポーランド,次いでバルカン半島,ソビエト連邦へと東方に向かうにつれ,ナチス親衛隊によって,「ユダヤ問題」の解決が恐るべき方法ではかられた。征服された村や町,都市のユダヤ人が狩りたてられ,射殺され,近くの共同墓地に埋められた。また,犠牲者を密閉したトラックなどに押し込め,排気ガスを荷台に引き込み,共同墓地に向かう途中で死にいたらしめるという方法もとられた。しかし,あまりにも効率が悪いために,人里離れた「絶滅収容所」で殺人と火葬を行なうという計画が提案された。1942年1月のワンゼー会議で「ユダヤ人問題の最終的解決」につき,ヨーロッパの占領地全体からユダヤ人を東部の収容所に組織的に移送し,「しかるべき扱い」に処するという決定がなされた。一部はすぐさま処刑され,他の者は大規模な労役部隊に組織されたが,過酷な労働や乏しい食事のため結果的に最後は殺される側に選別されてしまった。大量処刑の最も効果的な方法は,特別に建設されたガス室(シャワー室に偽装)で,ガス室から運び出された遺体は隣接する火葬場へと移された。ガス室やその他の方法により,おそらく 400万人ものユダヤ人がアウシュウィッツ収容所など各地の絶滅収容所で命を落とした。戦争中,ナチスに処刑されたユダヤ人の総数はおよそ 570万人と推計されている。ユダヤ人に加えて,40万人ものロマ(→ロム)もホロコーストで殺された。 (2020.10.06 14:15:26)
続き ジェノサイド(集団殺害)計画は効率的に実施され,犠牲者はしばしば毒ガスで殺される最後の瞬間までそのことに気づかなかった。国民がユダヤ人に対し好意的だったデンマーク,フランス,イタリア,ブルガリアのような国々では,ユダヤ人をかくまったり,偽造文書を提供したり,中立国に脱出させるなどの措置がとられた。しかし東ヨーロッパでは,農民の伝統的反ユダヤ感情もあって,ほとんど支援は寄せられず,逆に絶滅運動の担い手となった非ドイツ人も少なくなかった。このような絶望的状況のもとでも,数千人のユダヤ青年がポーランド,ソ連,ユーゴスラビア,フランス,イタリアのさまざまな地下抵抗運動やパルチザンに参加している。特筆すべきは 1943年4~5月のポーランドの主要ゲットーにおけるユダヤ人蜂起で,ワルシャワではドイツの強制移送命令に抵抗して,ドイツ正規軍を相手に 1ヵ月近くもちこたえた。しかし連合国は有効な支援を行なわなかった。また大戦期を通じて,大部分の国はひと握りの難民を除くと,門戸を閉ざしたままだった。イスラエルでは現在,ユダヤ暦のニサン月27日(西暦では 4月19日もしくは 20日)にホロコーストの日の記念式典が行なわれている。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 (2020.10.06 14:16:06) |
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