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近代日本文学史メジャーのマイナー

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2020.07.19
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  『三四郎』夏目漱石(岩波漱石全集第五巻)

 『三四郎』を読まねばなるまいと考えたのは、その前に『漱石激読』(石原千秋・小森陽一)という本を読んだからであります。
 この本の中に、美禰子はこれっぽっちも三四郎に好意を持たなかったという趣旨の発言があって(それも、何といいますか、そんなの当たり前じゃないですか、みたいなニュアンスを感じる文脈で)、私はいくらなんでもそこまではないんじゃないかと感じたんですね。

 そこで、こうなったら原典に当たらずにはいられまい。
 よし、今回の『三四郎』読書テーマは一点、「美禰子は三四郎を愛したか」である、と。

 それでまー、勇んで読み始めたわけです。
 しかし、読んでいる途中で、私はだんだんと気づいてゆくんですね。

 なるほど、美禰子が三四郎に好意を持っていると読める箇所はないではない。しかし、逆の読みをしたほうが、別の『三四郎』という作品が現れ、ひょっとしたら今の私は、こちらのストーリーの方に強く興味を持っているんじゃないか、ということに気づいたわけです。
 つまり、美禰子は三四郎に特別な恋愛的興味を持っていない展開の『三四郎』に、少なくとも今の私はより強い説得力を覚えてしまいました。

 では、美禰子が三四郎に好意を持っていない『三四郎』とはどんな話かといえば、私はポイントは2つあると思います。
 ひとつは、(これは上述の本にも書かれていますが)『三四郎』が見事に『坊ちゃん』と同形の構造を持っているということ。
 もう一つは、特に中盤辺りから現れる作品中に漂う寂寥、哀愁のような感覚は、美禰子の淋しさに重なっているということです。

 順にもう少し考えてみます。
 すでに様々な指摘がありますが、美禰子の心の中に存在する異性が「野々宮」であるならば、そもそも三四郎は完全な部外者といえる存在になってしまいます。
 その関係は、『坊ちゃん』の赤シャツと山嵐の対立と坊ちゃんとの関係、または赤シャツとうらなりのマドンナをめぐる三角関係と坊ちゃんとの関係、と全く同じになります。
 一見主人公のように見える坊ちゃんは、実はほぼ部外者であることがわかります。

 『三四郎』に話を戻してみますと、作品が始まって早々破局の予感ある美禰子と野々宮の関係は、そもそも三四郎の現れる以前の話であり、その破局の進行は三四郎と没交渉的に展開していき、そして最後に、美禰子の結婚へと行きつきます。

 その間にしかし、三四郎にも、美禰子との幾度かの交渉の場面があったではないか。
 ここが、今回の読みの中心ですが、一度、美禰子の心の中に存在している異性は野々宮であると前提してこの美禰子三四郎の交渉を読むと、打って変わって、見事に「野々宮に捨てられる(少なくとも結婚してもらえない)」美禰子の心の悲しみがにじみ出てきます。

 私たちは、三四郎に対する美禰子の様々なコケットリーな言動に、読んでいてしばしば惑わされます。しかし彼女の心には野々宮しかいないと前提づけて読むと、三四郎には極めて気の毒ながら、そこには一つの恋を諦めていく女性の懸命な姿が浮かんでくるばかりであります。

 そしてその悲しみは、上述したように、『三四郎』全体のちょうど中盤辺りから全編にわたって広がっている寂しさ、哀愁の感覚と重なります。後半に描かれるさまざまなエピソードは、美禰子の恋の終わりに重なるように、哀愁にまみれています。

 では、なぜ、美禰子は野々宮に選ばれなかったのでしょうか。
 まず、これも様々な指摘があるように、漱石自身の「女性嫌悪」感覚が影を落としているのは間違いないでしょう。広田、原口、野々宮などの独身男性の描かれ方の中に、それは遍在していそうです。

 美禰子のモデル問題というのもありますね。
 漱石の弟子、森田草平との「煤煙」事件のヒロイン平塚らいてうだといわれる、そのらいてうに対する漱石の人物認識でありましょうか。

 はっきり書けば、美禰子は、上述の東大を巡るエリート男性集団(漱石自身も、そして漱石の弟子たちも)にとっては、妻とするにやや持て余す人物像と設定されているということです。(それは時代が女性に強制したジェンダー、と言い換えることもできるでしょうか。)

 例えば、三四郎池で三四郎と初めて出会った時の美禰子の行動、やはりここには妻とするにはやや持て余す女性が描かれているでしょう。
 しかしまた、そんな造形をされた美禰子が、二人だけの時に三四郎に「私そんなに生意気に見えますか」と囁く場面があります。
 その時の彼女の心の中にも野々宮を配置して読むと、やはりここには痛々しいものがあります。

 さて、今回私は「美禰子は三四郎に好意を持っているか」をテーマに読み始め、途中から「終盤までの美禰子の心の中にはいつも野々宮がいた」を前提に読み進め、今までの『三四郎』と全く別の作品を読んだように思いました。
 しかし、やや「持て余しもの」造形の美禰子が、なぜこんなに魅力的に描かれているのでしょうか。

 以前私は『三四郎』を論じたテレビ番組を見ましたが、そこで美禰子は「近代日本文学最強のヒロイン」と紹介されていました。それを見た時の私は、それは「吹きすぎ」だろうと思いましたが、今回の読書後の今なら、大いに納得いたします。
 漱石の美禰子描写には、それくらいの魅力と迫力を感じます。
 (多分これは、漱石の小説家的直観が、はしなくも彼の女性に対する倫理的価値観を力技でねじ伏せた結果、という感じがします。)

 ……いやー、今回は、本当に『三四郎』を、つまりは明治の青春の哀愁を、わたくし大いに堪能いたしました。

 (話は全然違いますが、「近代日本文学最強のヒロイン」って、あなたなら、一体誰を選びますか?)


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Last updated  2020.07.19 10:05:36
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