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成田山新勝寺が、現在地に移転する前にあったといわれている不動塚。 祓戸として大祓四神が祀られている摩賀多神社。 そして、謎の成田山新勝寺奥之院です。 最初に向かったのは、不動塚です。 不動塚は成田市並木町の金刀比羅神社内にありました。 金刀比羅神社は、JR成田線の線路沿いにある小さな神社でした 金刀比羅神社の境内にある不動塚 小さなお社の中には不動明王の石像が安置されています 成田山新勝寺の歴史は、朱雀天皇の勒命を受けた寛朝大僧正(かんちょうだいそうじょう)が、京都の高雄神護寺から弘法大師空海作の不動明王像と共に東国へ下り、この地で平将門の乱鎮圧のための護摩祈祷をしたことに始まります。 大阪港より海路を経て、九十九里浜の尾垂ヶ浜に上陸。 成田郊外の公津ヶ原まで進むと、将門の戦乱により荒れ果てた土地と、すさみ疲れた人々を見て、護摩壇を設け不動明王像を安置して、朝敵調伏を祈祷しました。 その場所が、この不動塚周辺と伝えられています。 平将門の乱を平定し、大任を果たされた寛朝大僧正は、再び不動明王像と共に京都へ帰ろうとしましたが、不思議なことにご尊像は磐石のごとく微動だにしません。 やがて、「我が願いは尽くる事なし、永くこの地に留まりて無辺の衆生を利益せん。」との霊告が響きました。 これを聞いた天皇は深く感動され、国司に命じてお堂を建立し「新勝寺」の寺号を授与し、ここに東国鎮護の霊場として「成田山」が開山されたのです。 その後何回か遷座されたそうですが、永禄9年(1566年)成田七軒党の代表名主が不動明王像を背負い、現在の成田山新勝寺の場所へ遷りました。(現在地に遷ったのは永禄年間よりも古いという話もあります) 成田山新勝寺は、特に江戸中期以降と明治の鉄道開通後に大発展を遂げ、お正月の初詣客は関東地方一番を誇る大寺院になりました。 開基1070年を控え、昨年11月に完成したばかりの総門 参道から本堂へ至る、急な階段の途中にある仁王門 文政13年(1830年)の建立 本尊不動明王を安置する大本堂 1968年の建立 不動明王はどうして京都へ帰りたくなかったのでしょうか? また、成田七軒党の代表名主に背負られて現在地に着いたときに、全く動けなくなってしまったというのはなぜでしょうか? その謎は、奥之院にありそうです。 続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
December 24, 2012 07:47:03 PM
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