カテゴリ:ナーラダ・バクティ・スートラ
『ナーラダ・バクティ・スートラ』 (要旨解説) 心と体と言葉の三つ(トリ・サッチャ)を使って主への「バクティ」を行ったならば、それは主にとって最も愛おしいものとなる。「ナーラダ・ムニはヴィーナを奏でながらラーディカ・ラマナの御名を唱え三界を旅して、会う人全てにバクティを配る」と謳われている。また、主は五百年前に最も堕落した魂を救うために、主チャイタンニャと主ニッチャーナンダのお姿で現れた。そして全ての者にバクティ・ラサを配られた。私達も、主や主の純粋な献身者の足跡に従って会う人全てに「バクティ」のみが崇高な宝であると説教すれば、主にとって最も愛おしい人になる。 「自らの心と言葉、行為を用いて、全ての被造物を私の顕現と見なすこと、これこそが私へと通じる教えの中で最高のものであると、私は宣言する」『シュリーマド・バーガヴァタム』第11巻29章18節 行為を用いる方法はユクタと呼ばれ、ルーパ・ゴースワミーはそれをユクタ・ヴァイラーギャと呼んでいる。心身を用いて「バクティ」に従事すれば物質との結び目(アハンカーラ)がなくなるという教えである。行為を用いてこそ人に模範が示せる。人は瞑想と称する無行為の詐欺師にだまされ、実際は心を制御できない輩の教えを受け入れ混乱する。規定原則を守り、主の御名を唱え、謙虚に献身者に、全ての生命体に仕える行為の中に生きている人こそ聖者なのである。シクシャ・グルの権化であるルーパー・ゴースワミーに従う者こそ真の「バクティ」が与えられる。 「バクティ」のみが森羅万象の中に主を見る眼を与えてくれる。そして全ての生命体の中に主を見て、主を忘れている人に主を思い出させようと奮闘努力する。主の御名を唱えてもらうように懇願する。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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いつも楽しみに拝読しております。
「行為を用いてこそ人に模範が示せる。人は瞑想と称する無行為の詐欺師にだまされ、実際は心を制御できない輩の教えを受け入れ混乱する」 まさしく、今の時代この状況だと感じます。書店の本をみればよくわかります。ビジネスでも瞑想、成功者の本として瞑想、物質的な結果をもとめた世界。 日本ではまだ引き寄せだとか成功法則やお金持ちの話や学びが多いのですが、欧米ではスピリチュアルとして、ノンデュアルティ(非二元)が主流となり、多くのスピリチュアルティーチャーが活躍しています。 欧米の方が、人間が欲しいものを得て、豊かな生活ができても、苦悩はつきまとう事にいい加減に嫌気がさし、限界を感じてきたのだと思います。まるで、般若心経「色即是空、空即是色」の逆輸入に取れます。 しかし、それでも創造主神をないがしろにした考えであれば、そこにも限界が生ずるでしょう。 「規定原則を守り、主の御名を唱え、謙虚に献身者に、全ての生命体に仕える行為の中に生きている人こそ聖者なのである」 主クリシュナという一点に自己を置かない限り、何もならない、儚い人生に終わる事を暗示していると感じました。 (Nov 30, 2016 02:06:44 PM)
>虹の父さん
物質の二元、損得・好き嫌い・吉凶などのラーガ(執着)とドゥヴーシャ(嫌悪)ではなく、精神的な二元、プルシャ(クリシュナ)とプラクリティ(ジーヴァ)の二元論に至らない限り本当に行為したことにはなりません。西田幾多郎先生はそれは行為とは呼べず動作(単に木の葉が風に揺れているようなもの)と一喝されています。 12月10日はバガヴァッド・ギーターが語られた日です。インドのクルクシェートラ大学で記念学会が開催されます。私はインド政府からそのセミナーに招待され、出席します。楽しみにしています。 (Dec 2, 2016 11:33:11 PM)
ここのスートラの和訳文への疑問点を (78)のコメント欄に書き込みました。各コメント欄を開くのは、とても手間がかかるので、(78)に書き込むことといたします。
(Dec 16, 2016 05:04:29 PM)
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