地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく
「人はいつから『殺人者』になるのか」
自分の人生を振り返れば、それほどやり残したようなこともないが、どうしても納得できないのが戦争というものの存在である。 もしブログを書きつづけるなら、それが大きなテーマにならざるを得ない。図書館から借りてきた本などをネタに、未来の子供達にメッセージを残すようなつもりで、地球人としていきていくスピリットをみつけて見たいものだと思う。
このように、おおざっぱにまとまってきたのが、このブログのテーマだ。だから、最近は、足しげく図書館にかようことが多くなってきた。しかし、過去一年間に出版された新書本で、このブログと関連がありそうな本もそう多くない。なんの気なしに借りてきた本は、実際にはどのような内容なのかわからないで読み始めることが多い。
この本は、多くの事件の裁判記録や受刑者たちとの実際の面会記録を元に、作家・佐木隆三が9人の殺人者についてまとめている。ひとつひとつの事件については、なまなましく私達の脳裏にやきついている事件ばかりだ。女児誘拐殺人、大阪池田小事件、和歌山毒カレー事件、北九州監禁・連続殺人事件、坂本弁護士一家殺害事件、地下鉄サリン事件、音羽幼女殺人事件、ホステス殺人事件、中州ママ連続保険金殺人。
ひとつひとつの事件については、ほとんど報道されているので、知っている内容だが、彼らがそこにいたるまでの経過、ひとりの人間が成長し、そしてついに「殺人」を決意するに至るには、そこになにがあるのか。事件前後のディティールを、著者は微にいり細にいり、再現する。本来、とても目をむけられたものではない。
もう、私には、このような事件は、他の惑星でおきていることなのだ、と、無関心を装いたくなるような内容ばかりだ。はっきり言って、毎日毎日報道される事件には、見ざる言わざる聞かざるを決め込もうとしているこのごろである。しかし、これは、この日本の、しかもこの何年かの間に起きた実際の事件なのである。
「新聞の社会面を見ていると、殺人事件が記事にならない日はない。国際面を見ていると、またしても自爆テロである。一般の殺人と、自爆テロがどう違うのか、わたしにはわからないけれども、どのような殺人であっても、決して容認されるものではない。そのことに思いを致しながら、現実から目を背けることなく、『あんたはどうして、こんなことになったの?』と、問いつづけていくしかないのである。」p9
サスペンスドラマなどで、よく「~~~殺人事件」などと猟奇的なストーリを展開しているようだが、真実は小説より奇なりというべきか、私は、サスペンスもあまり好きになれないが、ましてや実際の事件簿などを直視する勇気が湧いてこない。
しかし、ふと思う。著者がいうような自爆テロばかりではなく、戦争犯罪人たちも、ある一点から、「殺人」を決意してしまうのはなぜだろうか。真珠湾攻撃があり、9.11がある。オーストリア皇太子がピストルで殺害されたりと、つねに戦争のきっかけになった、ある一点がある。
もちろん、その一点にたどり着くまでは、一人の人間の人生上でさまざまなドラマがあるように、戦争にいたるまでの経過には、さまざまな要点があり、一概にその原因をいうことはできないだろう。しかし、やはり殺人はしていけないし、戦争はなくさなくてはならないのである。
この本には、いみじくもオウム教関連の殺人者が2名レポートされている。彼らが事件にまきこまれるまでの過程は、ある意味、「殺人」と「戦争」の間にあるような感じがする。精神世界を語りながら、戦争を準備した彼らに、なんの共感するところはないが、その事実から、私たちは目を背けてしまってはならないのだろうと思う。
作家・佐木隆三にはたくさんの著書があり、これを契機に彼の作品群に足を入れていくのも、ある時点では必要になってくるかもしれない。あるいは、麻原の死刑確定を契機として、オウム関連のレポートをもういちど見てみることも、いつかは必要かもしれない。でも、現時点では、私はどちらもしないだろう。エネルギーを注ぐべきことは、もっと他にもある。
この本を読んで思うに、このようなレポートが残っているのは、やはり重要なことなのだということだ。今は目を背けつづけても、いつかは、ゆっくり検証する必要があるのだと思う。そして、詐病を使いながら、ついに本当の心境を語らずこの世を去らざるを得ない麻原は、やはり人間として哀れだな、と思う。
最後になったけど、この著者は、一人称を「わたし」としていた。法律用語の羅列する中で、「わたし」という言葉がやさしく、より人間的に響いていたことが印象的だった。