「日本人の神はどこにいるか」
島田裕巳 2002/6
妹がトルコ人青年と結婚することによって、イスラム世界に目が開かれた著者の前に、展開された世界的事件が、2001年の9月11日に起きた事件だった。いみじくも著者は、直前に「『オウム』なぜ宗教はテロリズムを生んだのか」という大冊を上梓している。そこで予期せぬ大事件9.11が発生したわけであるが、その時の感慨を含めて島田は緊急にこの一冊を書いたともいえる。
しかし内容的には9.11への言及は極力控えられ、いわゆる島田的「宗教学」の確立をいそいでいるかのような様相を呈している。その島田的「宗教学」の後ろ盾として援用してくるのがルーマニア生まれの宗教学者ミルチア・エリアーデだ。
エリアーデは宗教学者---かれ自身の言い方では「宗教史家」---であるとともに、小説家であった。近年では、小説家としてのエリアーデへの評価が高まり、日本でもいくつかの小説が翻訳されている。しかしエリアーデの偉大さは、やはり包括的で壮大な宗教史研究にある。p061
エリアーデは、「世界宗教史」で歴史的、通時的な記述をめざし、「宗教百科事典」で横断的、共時的な記述をめざした。これから、エリアーデに匹敵するような気宇壮大な試みに乗り出す学者は、そう簡単に出てこないだろう。わたしたちが一貫した宗教理解の枠組みを求めるとするなら、これからもエリアーデを出発点としていかなければならないのだ。p064
エリアーデは「ルネサンス哲学の試論」という卒業論文を書いて、ブカレスト大学文学哲学部を卒業したあと、東洋の宗教への関心を深め、21歳でインドにわたった。かれはインドに3年間滞在し、カルカッタ大学のスレーンドラナート・ダスグプタ教授のもとに学んだ。エリアーデはヨーガに関心をもち、寺院を訪れるとともに、ヒマラヤのアシュラムですごしたこともあった。p065
エリアーデはインドから帰国後、かれの師であるナエ・イヨネスクのもとブカレスト大学で教えるようになり、ヨーガや錬金術関係の著作を次々と発表していった。しかし、かれは小説家にも、宗教史家にも収まりきれないものをもっていた。
政治的な運動ともかかわり、キリスト教的なファシスト集団「大天使ミカエル軍団」に接近し、当局に身柄を拘束されたことさえあった。これは、かれを故国ルーマニアから引き離すことに結びつく。p066
ああ、引用すればキリがないので、そのうちエリアーデの生涯について詳しいという奥山倫男「エリアーデ宗教学の展開」(刀水書房)を参照することにしよう。島田はこのあと、世界宗教といわれるユダヤ教、キリスト教、イスラム教などをめぐり、一神教と多神教の区別について述べる。日本の神として、柳田國男の仕事に思いをめぐらし、天皇制や、農村や都市における共同体(性)の在り方に言及する。また天理教などのケースを引いて、「教義」と「信徒」の在り方について述べ、最終的に本書の「日本人の神はどこにいるか」をあぶりだそうとする。
私は島田を時系列に並べることなく、95年当時の彼の「醜態」のイメージをもったまま、ここ最近手当たり次第にランダムに読んでしまったので、この一冊の位置する部分を正確に言い当てることはできない。ただ、エリアーデについて以外の部分は、私にとってはあまり目新しいことはなかった。島田は宗教学者としての激しい葛藤の中にいて、みずからの依って立つべきポイントを必死に探しているように見える。もちろん、それは冷やかしとしてではなく、とりあえず、その動向をよしと想うことはできる。
研究者が研究テーマを選ぶとき、そこにはもちろん知的な好奇心が働いている。何か興味をひくこと、何か重要だと思われることをテーマとして選んでいく。
しかし、知的な好奇心というものは、かならずしも長続きはしない。好奇心で選んだテーマにある程度の見通しが立ってしまうと、とたんに興味を失ってしまうことになりやすい。中年の働き盛りになって、研究テーマを見失ってしまう研究者も少なくない。p067
さて、これは、島田自身において考える場合、どのようなことになるだろう。「好奇心で選んだテーマ」として、ヤマギシ会や麻原集団や創価学会があったのだろうか。島田の内的な葛藤としての探求が、どのような形で形づくられていくのか、私はまだ見いだしていないし、予想もできていない。だが、どうも彼は、一つの世界を「閉じた世界観」として書きたがっているように感じる。そして、閉じよう、閉じようとするのだが、すでに開かれてしまった世界は、当然のことながら、一向に閉じようとしないのである。ここに島田の本質的な喜劇性があるように思える。