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カテゴリ:アンソロポロジー
自称・冬眠中のPレム氏と久し振りにお茶したところ、何冊かの本を紹介された。そのリストのまずは一冊目がこの本だった。チベット本やネイティブ本をそれぞれ100冊程度読みすすめてきた当ブログではあるが、さしたる方針もないので、読み込むべき書籍はまだまだ残っているのに、どうも暗礁に乗り上げてしまって、進まない地点にさしかかっている。「アンソロポロジー」というカテゴリを作って再スタートしているものの、なかなか進まない。 そこで、かならずしもチベットにこだわらず、大きなユーラシア的視点から、チベットをみたらどうなるのか、という思いは以前からあったが、なかなか手が伸びなかった。今回、Pレム氏の紹介もあり、当ブログの探索の一環というより、今後の彼との交友のからみの中で、今後の対話もあり、なにはともあれ、このような本に目を通して、話題の切り口を2.3見つけておくのもいいかなぁ、と読んでみた。 ヨーロッパとアジアとあわせて、ユーラシアという。最近では、これにアフリカをくわえて、「アフロ・ユーラシア」といったりもする。あるいは、そのほうがいいのかもしれない。ひところよく使われた「旧世界」「旧大陸」とは、いわなくなった。あるイメージ、価値観がつきまとうからである。ユーラシアもアフロ・ユーラシアも、その意味では乾いた表現である。ただし、ふるくからの人類史の舞台という考えが背景にあることはたしかである。p7 なるほど、Europe + Asia = Eurasia だったのか。ないしは、Afro-Eurasiaとなるのであった。このような視点から、人類史を見つめ、あるいは、チベット史をみていくことも大事だな。いま話題の渦中にあるダライ・ラマ16世だが、このダライ・ラマという称号も、もともとはチベットの自前のオリジナルではなく、モンゴルから送られたものだった。 ティベットが、諸宗派の乱立からより広い世界に進出して、「ティベット仏教圏」を形成するには、外からの大きな力があった。13世紀後半、モンゴル帝国とユーラシア世界に新しい時代をもたらした大カアンのクビライこそ、ティベットに第二の夜明けをもたらした人であった。 現在の中華人民共和国の首都である北京は、クビライの帝都「大都(だいと)」の直接の後身である。いまも北京の空をついて、高くそびえる巨大なティベット式の仏塔「白塔(はくとう)」(モンゴル時代の大聖寿万安寺、のち妙安寺)は、クビライ時代につくられた。当時の大都には、こうしたインド・ティベット風の高層建築が林立していた。 ティベットは、モンゴル時代にかがやいた。そして、その記憶がうすれきらぬうちに、16世紀、内モンゴルのトメト部のアルタン・カンは、青海にて「第三代ダライ・ラマ」(初代・二代は、のちに遡及してかぞえられた)と有名な会見をした。モンゴルとティベット仏教との、二度目の邂逅であった。 アルタンは、みずからをクビライになぞられ、「第三代ダライ・ラマ」をパクパになぞらえた。ダライ・ラマ(直訳すると、「海の高僧」。そのこころは、「四海にあまねき師僧」といったところか。「ダライ」、すなわち「海」「大海」をもって威令や恩徳の広大なことを表現するのは、モンゴル時代の1246年、第三代モンゴル皇帝グユクがローマ教皇インノケンティウス四世にあてた国書において、すでに見える)が、モンゴルの政治権力をつうじて、内陸アジア世界の宗教権威となる道が、ここにひらかれた。 p50 「元氏と源氏---拓跋国家における漢姓と日本の賜姓」p218なども興味深い。小学校時代以来、地理と歴史にはトンと弱い知力しかない私であるので、この辺から連想するのは、「源義経=ジンギスカン・説」などでしかない。が、まぁ、まったく関心がないと言ってしまうよりは、なにかかにかの足がかりにはなるだろうか(苦笑*2)。 前近代のユーラシアどころか、近現代の世界であってさえ、「民族」はつくられている。たしかに「民族」と呼ぶにふさわしい場合もあれば、全然そうでない場合もある。確実な由来と伝統をもつ「民族」だけではなく、ほんの出来合いの「民族」もある。「民族」という考え方そのものが、作為性に満ちている。 とくに、近現代において、「少数民族」が、やたらにつくらえた。おそらくは、国民国家が、「少数民族」をつくったからである。国民国家という幻想のなかで、国家の「主体」となる「多数民族」が設定されると、そこからはじき出された人たちは、「少数民族」として括られることにとなった。 わたくしたちは、歴史をふりかえるときも、現在をながめるときも、「民族」という語のなかに、じつはさまざまなヴァリエイションがあり、現実には到底ひとくくりにすることはできないことを、当然のこととして思っていたい。ただし、そもそも、単色に塗りこめられる「民族」といたもののほうが、むしろ少数で、ときには不自然でさえあることは、歴史上はもとより、現代世界においても、たしかだろうが。p378 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.05.11 14:34:13
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