前より続く
「新しき流れの中へ」 第十の予言の教え
ジェームズ・レッドフィールド /キャロル・アドリエンヌ 1999/09 角川書店 全集・双書 428p 文庫本2001/05
Vol.2 No.0105★★★☆☆
本書は、「第十の知恵」を実行するために、過去生、魂のグループ、バースヴィジョン、霊的次元、世界ヴィジョンなどについて詳細に説明し、具体的なエクササイズの方法を紹介するものです。私たちが、どのように一人ひとりの人生に託された使命を発見し、人生を生死を超越した永遠のサイクルにフィットさせ、世界の変革に参加することができるのかを、明らかにしていきます。表紙見返し
さぁ、来たぞ。いよいよ、かなり扇情的なすべりだしだ。実際にこのような文章が本文中にあるのか細かくはチェックしなかったが、これはあくまで日本語編集の段階で編集者が宣伝文として書いたコピーだと思われる。う~む、わずか数行の中にこれだけのことを書きこんだら、いわゆるキャッチコピーとしては、山盛り満タンの内容といえるだろう。
まず過去生。これはいまだに人類が証明しきれていないテーマであり、あるともないとも言えない段階でしかない。確実にあるのだ、と言い切る文脈があるとすれば、それはそれですでに眉唾であるということになる。逆に、過去生などない、と断言する文面があるとすれば、それはそれで、またまた唾棄すべきものでしかない。つまり、この問題に触れるには相当に慎重でなければならないということになる。
当ブログとしては、過去生が話題になることには否定的ではない。むしろありうるものとして、機会があるたび、傍線をひいて拾い読みしてきている。しかし、非常に微妙だと思う。過去生について、時期が来て、ひとりでにバラの花が花開くように、自然な形で開示されることはありうることだろうが、過去生を見んががために、つぼみの段階のバラの花びらを押し開くような悪戯をしてしまったのでは、人生の真奥全体のデリケートな神妙さが失われてしまうからだ。
以前、当ブログでは、現代における象徴的な職業として三つの要素をあげてみた。
1)グローバル社会に対応する創造的なプログラマー
2)マルチな表現を理解する瞑想的なジャーナリスト
3)転生輪廻を自らの体験として理解する精神的なカウンセラー
この本の原書がでた1996年という時代は、まさにインターネット文化が爆発的に発達した時代であるのだが、本書の流れとしてはかならずしもインターネットのもつ重要な要素を強調し、また取り入れるということにはなっていないようだ。しかし、2番目の要素はかなり取り入れており、3番目に至ってはまさに、そのことズバリを展開しようとしているように思う。
魂のグループ、これはどうだろう。魂といわれるものも、じつはあるともないとも言われているもので、あるともないとも断言することははばかられる問題だ。科学がすすめばいつかは解決する、という問題ではなくて、魂というもの自体が明白な白日のもとで解剖されれば、何かがきっと失われてしまうことになる。幽霊の正体見たり枯れ尾花、ということもある。尾花を尾花とみることも悪くないし、尾花を幽霊として見立てて、そこになにか深淵な想像力をたくましくするのもまた、人間にゆるされた意識の広がりということになる。
魂のグループ、という言葉も魅力的ではあるが、もうすこし細かく見ていく必要がある。もともと魂とは大きな海のようなものだと仮定した場合、海はたしかに複数の川や湖からながれ込んだ水のグループなのだが、海は海として、ひとつのものだ。海は海でしかない。魂の話のレベルになれば、かなりスピードのついた話になっている。F1レーサーのようなレース・テクニックが必要となってくる。体力も必要だし、メカニック・チームも必要になってくるだろう。
バースヴィジョン。これは本書ならではの言葉使いなのだろう。私ははじめて聞いた言葉使いだが、意味することはわかる。私自身がどのような形でこの生を受けたのか、どのような志向性をもって生れてきたのか、あるいはどう生きるべきなのか。これはさまざまなエクササイズや瞑想的メソッド、あるいは人生体験のなかで、ほぼわかってしまっている事柄ではある。しかし、それを明文化し、整合性をもたせることには懐疑的なものを感じている。
私は誰か、が、永遠のテーマであるとするなら、安易な自己規定は危ない要素をたくさん含んでいる。途中経過として自らをそう規定することも可能だろうが、結局は人生とは永遠の玉ねぎの皮むきみたいなものだとした場合、どこかの皮の段階で止まってしまうことになってしまう。ましてや、自己了解したものならともかく、安易な形で外部からの影響で、君はこのようなものだ、というようなお仕着せをされたり、刷り込みをされたりすることは、非常に危ないことだと思う。
霊的次元、これについて、言葉使いはともかくとして、ブログレベルの、日常的なイージーなキーボード乱れうちのなかで書き込むことは、遠慮しておいたほうがいいだろう。霊妙な体験を言葉化することの弊害はたくさんある。ましてや物事はかなり入り組みこんでいる。慎重のうえにも慎重であっても、悪くない。
世界ビジョン。であるがゆえに、本書において「詳細に説明」する、とするところに、私としてはやや「引いて」しまうところがある。もともと人間の生き方は「自燈明」を旨とすべきだ、というのが当ブログの流れだ。イージーオーダーの既成の「世界ビジョン」はご遠慮したい。オーダーメイドというより、Do It Yourselfの「世界ビジョン」をこそ大切にしようというスタンスでいるのだ。
具体的なエクササイズを紹介してくれる、ということだが、このポイントこそが、このシリーズの人気の所以でもあるだろうし、また、限界でもある。コカコーラにハンバーガーというファスト・フード的なお手軽さとともに、所詮なかみのない見せかけだけの偽物というジャンク・フード的な要素がないわけでもない。
私たちが、どのように一人ひとりの人生に託された使命を発見し、人生を生死を超越した永遠のサイクルにフィットさせ、世界の変革に参加することができるのかを、明らかにしていきます。(同上)
ここにおける「私たち」という言葉使いは相当に危うい。「使命」も危うい。「人生の生死を超越し」などは、小説の世界でも、コンピュータゲームの世界であったとしても、そうそう簡単にもてあそぶ世界ではない、と私は思っている。もっと尊厳のある扱い方がなされるべきだ。
「永遠のサイクル」などというのは、正直言って、だれにもわからないと思う。それはない、と言っていい。あるかも知れない、などという可能性を残すべきではない。一日一日は確かに決まったサイクルだ。一年一年も決まったサイクルだ。太陽黒点も十数年に一度のサイクルで変化する。ハレー彗星も76年ごとには地球に近づくだろう。2500年ごとにブッタ達の当番が代わるかもしれない。しかし、それ以上のサイクルについては、もっともっと神話的になり、それははっきり言って架空の話でしかない。
ましてやビックバン仮説からこの宇宙が開闢したとして、それからまだ一回目のサイクルが、閉じられれないまま、一気に走り続けているだけということになる。「永遠のサイクル」などというあいまいなファスト・フードで腹を満たすことは私にはできない。
さぁ、「世界の変革」への「参加」を呼びかけるこの本。魅力満載の小説のようであり、魂のガイドブックのようでもある。21世紀のバイブルのようでもある。「新しい流れのなかへ」 読む価値があるやなしや。
後ろにつづく