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カテゴリ:mandala-integral
<1>よりつづく この本もまた20年前に出た本であって、さらには10年前に増補版がでたのに、さらにその本も売り切れている、という状態だ。なんでまた、今さらここでこんな本を読んでいるのじゃ、と、自分としてはちょっともどかしくも思う。 この本、著者にとってはほぼ処女出版にあたる本で、彼のその後の意欲的な出版経歴をみると、もともとプロテスタント牧師でありながら、継続的に仏教研究に精をだしているようであり、機会があれば、この岡野守也という指標で、時代をおっかけてみるのも面白いだろう。 トランスパーソナルな動きについては、もともと身近な存在でありながら、どこかでストッパーがかかって距離間を縮めなかった理由は、他でも触れたのでここではメモしない。ここにきて、玉川本を「ガイドブック」として、「エサレン」本を副読本として、ひととおりの地球探訪を始めてしまったかぎり、しばらくはこれらの古書と付き合っていかなければならない。 これはひとつのカルマであろう。いつかはこなさなくてはならない宿題を一夜漬けでやっつけてしまおう、というような魂胆がみえみえだ。通過しなくてはならないのなら、なにはともあれ、ここは覚悟して突入し、早めに切り上げることにする。 こうした理論的発展のなかで、マズローは、やがて、人間の成長の極限として<自己超越>をはっきりと想定することになった。それには、前章で述べたような状況のなかで、エサレン研究所などを通して出会うことになった禅、ヨーガ、道教、スーフィズムといった東洋宗教、あるいはシャーマニズムの再評価なdの影響が大きかったのである。p81 マズロー心理学とフランクフル心理学は、人間の本質を明らかにする上で、鮮やかな対比をなしながら照らし合っているということができる。つまり、それぞれが置かれた状況は、成長と悲惨という正反対の極限である。しかし、少数の例外的人間に人間すべての<潜在的可能性>を見たという点では、みごとに一致している。フランクフルの眼差しは、恐るべき質量の残虐行為をしたナチの人間性でも、協力ないし黙認した大多数のドイツ国民の人間性でも、低下した精神状況に陥った大部分の囚人の人間性でもなく、少数ではあれ高貴な人間が存在するという事実に注がれている。p103 グロフは72年から87年まで、ヒューマン・ポテンシャル・ムーブメントのメッカ、エサレン研究所の居住研究員となり、そこで、トランスパーソナル心理学の開拓者はもちろん、チベット密教の僧、禅僧、東南アジアの上座部仏教の僧、スーフィーの指導者、アメリカ・インディアンのシャーマン、ヨーガの導師など、さまざまな霊性の指導者や、ベイトソン、キャンベル、カプラ、エルジン、シュルドレイクなど、各分野の研究者と幅広い交流をすることになった。そうした交流をとおして、グログはLSDによる体験が、薬物中毒による妄想ではなく、むしろ深層心理学各派から東西の神秘思想に到るまで、さまざまなかたちで観察されてきた体験と重なる人間の魂の深層に潜む普遍的なものだという確信をいっそう深めた。p182 ブリージングが終わると、「マンダラ・ドローイング」といって、大きな円が印刷してある白紙と一箱のクレヨンがみんなに配られ、描きたいこと描くようにといわえる。体験したことを言葉でなく、絵で表現するのである。p207 第四は、自分たちがやっていることを理論的に正当化・弁護するものとして期待している、というタイプがある。これは、新宗教・精神世界に見られる現象である。トランスパーソナルとそれらの違いは、先ほども述べた、オープン・システムかクローズド・システムかというところにあるが、そこを別にすれば、かなり近い面もある。相互利用できないこともないし、実際、交流がある。p250 玉川信明は、Oshoとトランスパーソナル心理学との「相対関係」を探ろうとした。その試みが成功したのかどうかは定かではない。しかし、70年代のエサレンとプーナ1におけるセラピー群がともに「ブッタたちの心理学」探究の潮流を生み出したことは間違いない。ただ、エサレンは、心理学の最先端を自任していたが、「ブッダ」たるものをまだ自らのものとすることはできないでいた。 かたやプーナ1におけるグループ・ワークは、ブッタが心理学まで降りては来ているが、そこは最終形態ではなく、すばやく瞑想のレベルへと吸い上げようとしていた。ここにお互いの出会いがあり、また次のステップへのせめぎあいがあった。 岡野がここで言っている「クローズド・システム」に対する批判は、トランスパーソナル側からの「グルイズム」批判となってでてくるし、ブッタ側からすれば、結局トランスパーソナル心理学は、「マインドの遊びごと」という表現にならざるをえなかった。 当ブログにおける探究のひとつは、この「ブッダ達の心理学」にある。いましばらく、古書たちとのお付き合いがつづく・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.12.02 06:59:36
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