オウム真理教のドキュメンタリー映画で知られる映画監督・森達也(もりたつや)氏は、3日の朝日新聞に寄稿し、映画『靖国』上映中止騒ぎを起こした日本人社会について、次のように論評している;
ドキュメンタリー映画「靖国」の公開を4月に予定していた東京と大阪の映画館5館が、上映中止を決めた。トラブルや嫌がらせを警戒しての自主規制だという。
発端は、映画を「偏向」と決めつける週刊誌報道を受け、映画制作に公的助成金が出ていることを自民党国会議員が問題にしたことにある。その議員は試写を見て「偏ったメッセージがある」と感想を語ったという。
ドキュメンタリーは、360度の世界をどう切り取るかによって変わる、主観的な表現行為だ。客観的なドキュメンタリーなどあり得ない。中立であるべきだというのは、ドキュメンタリーに対するリテラシー(読み取る力)を欠いた要求だ。
「靖国」は、監督が必死にバランスをとろうとした映画だと私は見た。靖国神社を中国人監督が撮ったことに短絡的に反応した騒動といえないだろうか。
映像にこめられたメッセージを、様々な立場の人が見て自分の主張を紡いでいくのがドキュメンタリーだ。政治家という立場で公開前に「偏っている」と価値判断を示すこと自体、映画に特定の政治色を帯びさせることになる。それは映画の評価や見方を強制する「圧力」にほかならない。ただ、当の議員自身も、その後の事態の広がりには戸惑っているかも知れない。
熱力学に「相転移」という言葉がある。水が氷になったり水蒸気になったりと、分子一つひとつは変わらないのに、全体の相が変わることだ。面白いことに、零度の水は液体と固体のどちらの姿もとりうる。水を零度以下までゆっくり冷やすと、液体のままでいる「過冷却」の状態になる。そこでコップをたたくと、一気に凍る。
最近の日本は、この過冷却の状態ではないかと思う。亀田父子にしろ朝青龍にしろ、安倍前首相にしろ、昨日までのヒーローが一夜でバッシングの対象になる。一人ひとりは変わらないのに、何かのきっかけで社会の雰囲気ががらりと急変する。
自民党国会議員は、コップをたたいたに過ぎないのかも知れない。「反日」を糾弾する勢力の嫌がらせなどには、対処のしかたがあるはずだ。上映中止という映画館の先回り自粛から見えるのは、いつ世相がひっくり返るかわからない、不安や不満に満ちた社会の臨界状態だ。
かつて「放送禁止歌」を取材した。人はこれを自主規制というが、自律的で主体的な規制ではない。いってみれば他律規制だ。ルールがない不安から逃れるために「ここから先は危険」という標識を立てて、その内側にこもることで安心する。標識はそこかしこに立てられ、やがて禁止が独り歩きを始める。無自覚な規制がルーティン化し、社会の過冷却を招く。
イワシやメダカは、1匹が逃げると群れの全員がどっと逃げる。同じように人も群れる。群れの暴走は怖い。だから、場を乱すなとの声が高くなる。日本社会はいま多数に同調し、少数の意見や見方をたたく傾向が強まっている。
過冷却社会から脱するにはどうしたらいいのか。映画を含むメディアはつくり続け、発言し続けるしかないし、「見せる」「聴かせる」という努力を続けるしかない。そして、それを社会が受け止め、多様な視座を形づくる。やぼったいが、声を出す、声を聴く、それしかない。
2008年4月3日 朝日新聞朝刊 13版 15ページ「私の視点-『靖国』上映中止 過冷却社会が圧力を増幅」から引用
森氏が指摘するように、政治家が公開前の映画をチェックするのは検閲と同じ効果をかもし出すのだから、やってはいけないことである。例え国の予算が支出されていても、作品の内容に介入してはならない。政治の介入は表現の自由を損なうからである。
それにしても、かつてジャーナリストの本多勝一氏は日本人社会を評して「メダカ社会」と言ったことがあったが、森氏も同じ表現を使っている。やっぱりそうなんだなぁと思った。