96条の改変というのは、サッカーのゲームに例えると、自分のチームが有利になるように一方のチームが試合のルールを勝手に変えようとする暴挙と同じだと、大変分かりやすい例え話で、石川教授は説明している。一昨日、昨日の続きで、石川氏は次のように述べている;
特別多数決も、多数決には違いないが、単純多数決に比べ、討論とコンセンサスの制度的条件を提供して、民主的決定の質を高めると同時に、異論の余地も残せる利点がある。その分、時間的なコストは、覚悟の上である。具体的には、日本国憲法はつぎの5つの局面を想定している。
衆参それぞれの議院で行われる、議員の資格を争う裁判で、議席を失わせる結論を出す場合。
会議を非公開(秘密会)にする場合。
院内の秩序をみだした議員に対して、除名の議決をする場合。
衆参両院で結論が食い違った法律案を、衆議院で再議決して国会全体の議決とする場合。
そして、
憲法改正の発議をする場合。
これらのうち、はじめの4つについては、「出席議員」の3分の2で議決できるのに対して、憲法は、憲法改正についてだけは、さらに「総議員」の3分の2にハードルを上げている。
それは、5つの局面のうち、憲法改正の発議が一番重たい問題であるからにほかならない。その際、衆議院だけでなく参議院の賛成が要求されているのも、5つの局面のうち憲法改正が格段に重要であり、決定に熟議を要するからである。これに対して、現在高唱されている憲法96条改正論は、ほかの4つの局面は放置したまま、憲法改正についてだけ、通常の立法なみの単純多数決にしようというのである。問題の軽重に照らして、いかに内容のチグハグな提案であるかは、これだけでも明らかであろう。
それだけではない。96条改正を96条によって根拠付けるのは論理的に不可能だということが、第三の、そして最大の問題である。それは、硬性憲法を軟性憲法にする場合であっても、軟性憲法を硬性憲法にする場合であっても、変わりがない。
たとえば、法律が法律として存在するのは、何故か。法律を制定する資格や手続きを定める規範が、論理的に先行して存在するからである。同様に、立法府である国会が、憲法改正を発議する資格をも得ているのは、憲法改正手続きを定めた96条が、論理的に先行しているからである。特別多数決による発議に加えて、国民投票による承認が必要、と定めたのも96条である。憲法改正が憲法改正として存在し得るとすれば、96条が論理的に先行して存在し、96条によって改正資格を与えられたものが、96条の改正手続きに基づいて憲法改正を行った結果である。
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それでは、憲法改正条項たる96条を改正する権限は、何に根拠があり、誰に与えられているのだろうか。これが、現下の争点である。結論からいえば、憲法改正権者に、改正手続きを争う資格を与える規定を、憲法の中に見いだすことはできない。それは、サッカーのプレーヤーが、オフサイドのルールを変更する資格をもたないのと同じである。
フォワード偏重のチームが優勝したければ、攻撃を阻むオフサイド・ルールを変更するのではなく、総合的なチーム力の強化を図るべきであろう。それでも、「ゲームのルール」それ自体を変更してまで勝利しようとするのであれば、それは、サッカーというゲームそのものに対する、反逆である。
同様に、憲法改正条項を改正することは、憲法改正条項に先行する存在を打ち倒す行為である。打ち倒されるのは、憲法の根本をなす上位の規範であるか、それとも憲法制定者としての国民そのものかは、意見がわかれる。だが、いずれにせよ、立憲国家としての日本の根幹に対する、反逆であり「革命」にほかならない。打ち倒そうとしているのは、内閣総理大臣をはじめ多数の国会議員である。これは、立憲主義のゲームに参加している限り、護憲・改憲の立場の相違を超えて、協働して抑止されるべき事態であろう。
なかなか憲法改正が実現しないので、からめ手から攻めているつもりかもしれないが、目の前に立ちはだかるのは、憲法秩序のなかで最も高い城壁である。憲法96条改正論が、それに気がついていないとすれば、そのこと自体、戦慄すべきことだといわざるを得ない。
2013年5月3日 朝日新聞朝刊 12版 13ページ「96条改正という『革命』」から引用
96条改正という発想が何故批判されなければならないか、3日間に分けて引用した石川論文に明らかであるが、如何せん、ヤンキーと呼ばれる連中ときた日には、論理的にものを考えるという習慣が無いので、このように分かりやすく説明しても、彼らが理解する可能性はほとんど無いと言っていいのではないか。しかし、だからと言って諦めて、これからの日本の政治が衆愚政治になることを黙って眺めているわけにもいかないので、上に引用したような発言を、もっと多くメディアに登場させて、心ある有権者に危機を訴えていきたい。