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この「チューさんの今昔ばなし」、今は昭和20年(1945年)10月、敗戦直後の時代の出来事を書いています。 内務大臣と内務省幹部の罷免をGHQ(連合国軍総司令部)に迫られた東久邇内閣は、わずか50日で総辞職しました。 次に総理大臣になったのは、幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)という人でした。 私はこの人物の名は知らなかったので、聞いてみると、大正から昭和の始めにかけて、長く外務大臣を勤めた人、ということでした。 幣原喜重郎 (出典 Wikipedia) 幣原喜重郎は、大正10年(1921年)のワシントン会議、昭和5年(1930年)のロンドン会議などで、海軍軍縮条約を締結し、アメリカ・イギリス・日本の戦艦保有比率を5:5:3に決めるなど、世界的な軍備縮小に尽力しました。 ただ、軍部などからは、幣原外相の米英協調の姿勢を 「幣原軟弱外交」 と攻撃され、満州事変では軍部の独走を止めることができず、このころから事実上政界を引退していました。 その幣原喜重郎を、東久邇内閣のあとの首班に推薦したのは、吉田茂だといわれています。当時は連合国軍の占領が始まったばかり。日本政府には重要政策の決定権は無く、GHQからのきびしい指令が、これから次々に出される時期です。 親米英派の幣原喜重郎も、始めは総理就任をしぶっていたそうです。しかしまだ、旧憲法の時代。昭和天皇に請われて就任を決意した、といわれています。吉田茂はこの内閣の外務大臣になりました。 幣原内閣成立(前列中央が幣原首相、右端が吉田茂) 果たして、幣原内閣が作成した憲法改正草案はGHQに拒絶され、GHQ製の新憲法原案を押し付けられました。 さらに、GHQの指令や、国家経済の破綻により、天皇の神格否定宣言のほか、農地改革、金融緊急措置令、食糧緊急措置令、などの施策を出さざるを得なくなりました。 また、食糧の極端な不足から食糧デモが各地で相次ぎ、「憲法より食糧だ!」と叫ぶ飢餓状態の都市住民からは恨まれ、幣原内閣打倒人民大会が各地で開かれて、集まった群集に警官隊が発砲する騒ぎもありました。 私の家の前の電柱には、「死出原内閣打倒」と書いたポスターが貼られていました。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 敗戦から間もないこの時期、私の長姉が35歳で亡くなりました。二人目の子の出産後から体調がすぐれず、前年から入院していました。多忙な義兄に代わって、私は母に付き添って、病院へ遺体を引き取りに行きました。 現在なら、治る病気ですが、薬はおろか、栄養となる食べ物もないこの時期。病気に対する体の抵抗力が失われていました。 戦争は、戦死や被爆だけでなく、全国民の生命を危機に曝したのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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