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昭和20年(1945年)の11月から12月にかけて、政党の復活、結成が続きました。進歩党・自由党・社会党・協同党・共産党(正式名称は、いずれも頭に ”日本” が付きます)などです。 町田忠治 鳩山一郎(出典 Wikipedia) 片山哲(出典 Wikipedia) 徳田球一(Time-AZより引用) 翌昭和21年(1946年)4月10日、新しい選挙法による衆議院議院総選挙が行なわれました。結果は、自由党141、進歩党94、社会党93、協同党14、共産党5 で、このうち女性議員が39名を占めました。 幣原喜重郎の与党・進歩党は第2党となり、昭和21年(1946年)4月22日、幣原内閣は総辞職しました。このあと、総理大臣が決まらず、1ヶ月もの政治的空白が起こります。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 幣原喜重郎は、内閣総辞職後、次ぎの第一次吉田内閣で無任所大臣として入閣。昭和22年(1947年)の総選挙で衆議院議員に当選。日本進歩党総裁となり、その後民主自由党に参加して、衆議院議長を務めました。議長在任中に78歳で死去。 政党復活のころ、昭和20年(1945年)12月16日、元首相・公爵・近衛文麿が服毒自殺しました。 軍部にかつがれて総理大臣となり、その軍部を押さえることができず、戦争末期には、ソ連に米英との仲介を頼むという、愚かなことをやろうとして失敗。敗戦直後には、厚顔にも大臣を引き受けるなど、あまりにも世間知らずの人だったと思います。 この、奈良時代以前からの藤原氏本流の末裔(まつえい)、さすがに、最後は自分の戦争責任を悟って、虜囚となる前に自ら身を処しました。享年54歳。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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