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昭和26年(1951年)11月12日、昭和天皇が私の在学する大学に来ました。私は大学の門と本館との中間あたりに立って、見ていました。学生会の代表者たちは、「天皇に質問状を渡すのだ」 と言って、玄関前附近で待機していました。 大学本館 大学へ来る前に、昭和天皇は、京都市役所を訪れました。前もって訪問を知らされていた高山京都市長(2011年5月20日のブログ参照)は、詳しくご説明を、と用意していました。 ところが宮内庁から 「5分間で市役所の説明をしてほしい」 との指示を受けて、困ってしまい、 「陛下、市役所というところは、人間が生まれる時から死んだ時まで、お世話するところです」 と話しました。昭和天皇は 「ああ、そう」 と言ったそうです。 昭和天皇の車が大学正門から構内に入ったのは、午後2時ごろだったと思います。通路の両側に並んだ学生の前に、数メートルに一人ずつくらいの警官が立っていました。 昭和天皇の料車 車が本館の玄関前に停まって天皇が車から降りたとき、学生会の代表者ら数人が、天皇に質問状を渡そうと近寄りました。 そして、それを制止しようとする警備員ともみ合いになり、ガラスの割れたような音が聞こえました。車のランプのガラスが割れたらしいのです。 昭和天皇は、学生と対話することなく、大学本部の建物に入りました。天皇は本部の中で、数名の教授たちから、研究成果などの説明を聴いたそうです。 その間に、多人数の警官が続々と正門から入ってきて、学生の前に隙間なく並びました。指揮者は、 「陛下に尻を向けてもよいから、学生をしっかり見張れ! 」 と号令をかけていました。 30分ほどで天皇は建物から出て来て、自動車に乗るやいなや、猛スピードで我々の前に立つ警官の壁の間を走り抜け、正門から出て行きました。結局、学生会からの質問状には、その後も何の回答もありませんでした。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 私どもは、いわゆる “戦中派” です。“"戦中派” 世代も、今では数少なくなりましたが、今日書いた昭和天皇の大学訪問のときは、学生のほとんどすべてが“戦中派” でした。 昭和天皇(出典 Wikipedia) “戦中派” は小学校で戦前の教育を受け、中等学校は大戦の最中で、学習を放棄して、勤労動員と称する強制労働を無報酬でさせられ、徴兵の一歩手前で敗戦となって、戦後も耐乏生活の中で勉学した世代です。 敗戦まで、政治も軍事も、すべては天皇の名によって行なわれ、批判など全く許されない時代を過ごしました。しかし、天皇の名で行なわれた国の行為は、法によつて、すべて内閣が責任を負うとされているそうです。 けれど、国民があれほどの被害を受けた戦争と敗戦。上に立つ人は、やはり結果責任、道義的責任をとるべきもの。形としては、皇室典範には制度がないが、自発的に退位されるべきではないか、というのが我々世代の大方の気持でした。 それが、講和会議が済んで新生日本が発足しても、天皇退位について何の話も無い、天皇自身は戦争責任をどう考えているのか、それが学生会の質問状の趣旨だったと記憶しています。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 東京裁判で、あれほど昭和天皇を弁護した元内大臣(ないだいじん)・木戸幸一も、昭和天皇に対して 「このたびの戦争で、国民は生命と財産を失い、皇族の大半は皇籍を失い、華族は爵位(しゃくい)を失い、財閥は解体されました。ひとり陛下だけがそのまま、というわけには参らないと思います」 との旨を進言したと聞いています。 東京裁判で昭和天皇擁護の供述をする木戸幸一被告 (出典 Wikipedia) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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