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月が替わって、今回から
2011年12月。いつも、私のブログ 「
チューさんの今昔ばなし」を見てくださって有難うございます。
この
ブログでは、昭和の初めから、私が見たり、聞いたり、体験したり、したことを、ほぼ年代順に書いています。今は、
昭和41年(1966年)の時代に入っています。
この
ブログは、私の
想い出日記ですが、同時に一庶民が体験し見てきた、日本国と世界の移り変わりでもあります。
歳とった者には、もはや力はありませんが、国の盛衰、世の中の移り変わりは、充分に見てきました。過去を振り返りながら、資料を調べながら、さらに続けて行きたいと願っています。
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このブログを、書き初めの 昭和3年 から 最終ページまで、ホームページ 用 に改訂し、内容も書き加えて、公開しています。 目次 から、どのページでも見られます。
ホームページアドレスは http://www.h6.dion.ne.jp/~chusan55
題 名 は 「チューさんの今昔ばなしと野菜ワールド」
なお、エピローグ以後のことは、 ホームページ の方に書いていますので、そちらでご覧ください。
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さて、昭和41年(1966年)当時、中華人民共和国 は日本と国交がなく、原爆実験を行なうなど、近い国なのに内情の分からない、何かしら不気味な国でした。
中華人民共和国 は、蒋介石(しょうかいせき)の中華民国軍との内戦に勝利して、毛沢東(もうたくとう) が建国を宣言したあと、農業と工業の 大躍進政策 を進めている、という報道が伝えられていました。稲作でも、密植栽培で驚くような多収穫に成功した、などという話も伝わってきました。
しかし、ときどきテレビに映る機械類を見ても、無骨な製品ばかりで、農工業の大躍進とは本当なのか、と私は疑っていました。
その 中華人民共和国 で、今度は “文化大革命” という行動が始まっている、というニュースが伝えられました。そのときは、古来の中国文化を大宣伝する政策か、と思いました。
しかし、事実はその反対。文化大革命 は “無産階級文化大革命”と言われるもので、それまでの中国文化を破壊する行為でした。
のちに分かったところでは、毛沢東 が進めた 農工業の大躍進政策 は、実は大失敗に終わり、数千万人もの餓死者を出して、毛沢東 は責任をとって国家主席を辞任していたのです。国共内戦時に援助を受けたソ連とも、不仲になっていました。
毛沢東 林彪
第2代国家主席には、実権派の 劉少奇(りゅうしょうき) が就任し、大躍進政策の失敗を教訓に、市場原理を取り入れ、トウ小平(とうしょうへい)ら と共に経済の回復を図りました。
劉少奇
これに対して、毛沢東 は権力を取り返そうと、林彪(りんぴょう) に命じて、「新社会文化創生」をうたい文句にし、修正主義者を排除する権力闘争を起こしました。劉少奇 や トウ小平 らの 実権派 は 走資派(そうしは・資本主義に走るやから) と呼ばれて排撃されました。
そして、毛沢東思想 を信奉する若者たちによって、紅衛兵 と称する組織が全国各地に結成されました。紅衛兵 は、毛主席語録 を掲げて、組織的な暴力を伴う粛清行動を展開しました。
紅衛兵の絵
そして、共産党の 実権派 の要人をはじめ、多くの人を襲い、多数の死者を出し、さらに多くの人に被害を与えました。とくに事業家や知識人を標的として、地方に追い、強制的に労働をさせるなどしました。
国家主席の 劉少奇 は、失脚して自宅に監禁され、拷問に等しい非人道的扱いを受けて死亡した、と聞いています。
紅衛兵 の暴行による死者の数は公表されていませんが、数百万人に及んだという推計もあります。国土全域で、多くの文化財や宗教施設・仏像などが破壊され、その被害は遠く 西蔵(チベット) にまで及びました。
知識人への迫害は、2500年前の中国の聖人・孔子(こうし) にまで及び、孔子 を悪人とし 儒教道徳 を否定する、という運動まで起こりました。これは、時の中華人民共和国の首相・周恩来(しゅうおんらい) への批判といわれましたが、周恩来 は失脚をまのがれ、首相の地位を保ちました。
周恩来
そのうちに、毛沢東 と 林彪 の仲も険悪となり、林彪 は、飛行機で国外脱出を図りましたが、モンゴル人民共和国内に墜落、死亡しました。
紅衛兵 に指示して 文化大革命 を推進したのは、毛沢東の妻・江青(こうせい) をはじめとする 四人組 といわれます。そして、この文化を破壊する大革命は10年以上も続きました。
江 青
このころの 中華人民共和国 は、ソ連との国交も事実上断絶し、交流のあるのは、アルバニアなど共産主義を掲げるいくつかの小国に過ぎず、鎖国のような状態になっていました。
このために、中華人民共和国 の経済活動は長く停滞し、立ち遅れました。現在の 中華人民共和国 の経済状態から見ると、想像できないような国情だったと言えるでしよう。 文化大革命 とは、毛沢東ら の復権のための、内乱のような 権力闘争 だったと思います。
このような騒乱の中でも、中華人民共和国 は、1967年に120キロトンの 水爆実験 を実施し、成功しています。
文化大革命 が終結するのは、昭和51年(1976年)、周恩来 と 毛沢東 が相次いで死去したのちです。
中華人民共和国 の 文化大革命 は日本にも飛び火しました。日本共産党は、内政干渉としてこの動きを拒否しました。
しかし、日本国内の一部の文化大革命信奉派は、共産主義同盟赤軍派 や 連合赤軍 を名乗って、昭和45年(1970年)の よど号ハイジャック事件、昭和47年(1972年)の 浅間山荘事件 を起こしました。
浅間山荘
毛沢東 の死後、中華人民共和国 の国家主席兼首相の座に着いた 華国鋒(かこくほう) は、一方では 毛沢東 を賛美しながら、一方では 江青ら 四人組 を逮捕して裁判にかけました。四人組 は死刑または無期懲役刑となり、江青 は自殺、他の3人は獄中で病死しました。
華国鋒
その後、華国鋒 も失脚に近い状態で辞職、トウ小平 が国家副主席ながら権力を掌握、いわゆる 実権派 が政権を取り戻し、文化大革命 の終結を宣言しました。
トウ小平
トウ小平 は、昭和53年(1978年)10月に来日、工場の見学や新幹線への乗車などを経験して、日本の経済発展に驚きました。帰国後、政治は 共産党一党支配、経済は 改革解放路線 を採って、中華人民共和国 の経済発展を推し進めてゆきます。
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改革解放路線 を始めてから、30年以上を経た現在の中国の経済発展は、驚くばかりの盛況です。しかし、現在の中国の政治、軍事、産業の指導的立場にある人々は、文化大革命 時代の 紅衛兵 の世代であることを忘れてはならないと思います。
原水爆 を保有し、経済力を高めた 中華人民共和国 は、軍備を増強して、日本を含む近隣諸国との間で、領土や資源を巡っての軋轢(あつれき)を起こしています。昔、内に向かって振るった力を、今は外に向けているのではないかと思われます。