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テーマ:映画から何かがはじまる(569)
カテゴリ:映画の話題全般
作家は、何かを世の中に伝えたいためにある「もの」
を創る。映画作家の場合は映画である。 例えば、「復讐や報復の虚しさ」を観客に伝えるために パク・チャヌクは「親切なクムジャさん」を スピルバーグは「ミュンヘン」を それぞれ創ったわけだ。 そこには当然、演出や作為があり、それによって作家が 伝えたいものが観客に効果的に届く。 だから、その「伝えたいもの」は、「演出や作為」という 化粧に隠されるか、カムフラージュされる。 それは製作資金を出す側や検閲官を誤魔化すという目的に おいても必用なことであり、また観客を楽しませるという 目的も大きい。 従って、出来上がった映画の裏側には作家によって隠された メッセージがあるということだ。 2月27日の私の日記に対する秀0430さんのコメントの 「映画はフィクションであると承知して、それでもあえてその フィクションという嘘を受け入れて味わうと言うところに、 鑑賞や批評の進歩があるのではないか」という部分は、 そうした作家が隠したものを観客がいかにみつけるかという ゲームという映画鑑賞が持つ一面を示していると思う。 しかし、観客は、時として、その本来の目的である「作家の メッセージ」を見つける努力以上に「カムフラージュしている もの」についてのみを評価することにエネルギーを費やして いるのではなかろうか。 映画作家とのゲームに勝つ為の観客としての鑑賞力向上の 第一歩は「演出には嘘が入っている」ということをきちんと 理解するではなかろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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