朝日新聞出版、マンが日本史「吉田兼好」。
元寇や、南北朝の内乱などで、国がガタガタし、 誰もが、時代に翻弄され、不安をかかえていた当時、家督や地位といった安定を捨て、隠者として生きたのが吉田兼好でした。
吉田兼好は、朝廷の神祇官の家柄に生まれ、知的な環境で育ち、2人の兄は、天台宗の大僧正と、朝廷の高級官僚になっているのです。
兼好自身も、子供のころから賢く、記憶力も抜群で、論語をすべて暗記していたとか。
20歳ころから朝廷で働き、歌を詠むのもうまかったようで、その実力は次第に認められていきます。
25歳の頃には、天皇の側近に。
ところが、仕えていた天皇が若くして急逝し、当時は両統迭立(2つの皇統に分裂していたので、交互に天皇に即位)だったため、兼好は、出世コースから外されてしまいました。
いくら努力しても、能力が高くても、自力で道を切り開けない…貴族社会で生きる意味を見失った兼好は、世間から離れて生きることに。
「世の中は相変わらずそのままだけれど、自分の心は自由だ」
都の郊外で、隠者生活を続け、旅をしたり、武蔵国の金沢(現在の横浜市金沢区)で暮らしてみたりと、気持ちの赴くままに行動しつつも、歌人としては、精力的に歌も詠みました。
当代随一の文化人でありながら、隠者であり続けた兼好の生き方の中で綴られた「徒然草」。
兼好没後、250年近く埋もれていたそうですが、江戸時代に大ブレイク。
嫁入り道具にもなったそうです。
兼好の住まい双ヶ丘(京都市右京区)の近くにある仁和寺。
桜の名所 だそうですが、「徒然草」の題材としてよくでてきます。
確かに仁和寺の法師の話は記憶にありますね。
このマンガ日本史では第53段のこんな怖い話が紹介されています。
鼎(かなえ)
可愛いお稚児さんを喜ばせようと、顔を鼎(かなえ)に差し込んで、舞いを舞った僧侶。
ところが、いざ、鼎を取ろうとすると取れません。
もちろん、医者もお手上げ。
結局、このままでは命も危ないという事で、
~首もちぎるばかりに引きたるに、耳、鼻欠けうげながら、抜けにけり。~
怖いですねえ。