朝日新聞出版、マンガ日本史「楠木正成」。
鎌倉幕府が成立してから140年。
幕府の最高権力者・北条高時は、酒や遊びにふけってばかりで政治を顧みませんでした。
当然、国は乱れる一方で、生活に困るようになった武士たちの不満と不安は募っていきました。
この頃、西国に新しい武士集団が出現。
年貢の取り立てに抵抗したり、荘園を襲ったりと、幕府や荘園領主に武力で抵抗した彼らは、「悪党」と呼ばれていました。
以前から討幕を試みていた後醍醐天皇は、悪党や幕府に不満を持つ武士たちを利用して政権を奪い返そうと動き出します。
この時、河内の悪党のリーダー、楠木正成は、後醍醐天皇に請われ、倒幕に参加するのです。
これには、面白いエピソードがあります。
2度の討幕の失敗で、笠置山に身を隠していた醍醐天皇はある日夢を見ます。
庭先の大きな木の勢いよく伸びる南側の枝の下に座席が。
そこに2人の子が現れて、「その席は、天皇の玉座です」というのです。
目覚めた天皇は、これはお告げだと思い、木の意味を考え、
南に広がる木→南の木→楠…
そこで近辺で楠という名の武士を探し出し、楠木正成が呼び出されたとか。
楠木正成らの活躍で倒幕に成功し、政権取り戻した後醍醐天皇。
「建武の親政」を開始しますが、天皇はじめ公家たちの身勝手な政治に武士たちの不満が募り、とうとう足利尊氏が挙兵。
楠木正成は、解決策を提言するのですが、却下。
湊川の合戦
天皇の命令で、尊氏討伐のため、湊川へ向かいます。
力をつけた尊氏には、勝ち目のない負け戦と知りながら、無駄な戦死者を出さないよう、3万以上の足利軍にわずか700余りの兵で対抗。
戦いに敗れ、最後は弟の正季(まさすえ)と刺し違えて自害します。
…武士ですね。
正成の死に、敵方の尊氏は「返す返すも残念」とその死を嘆き、正成の首を妻子に送り届けたそうです。
正成はゲリラ戦法が得意でした。
恐怖のわら人形作戦…等身大のわら人形に鎧を着せて城の下に並べ、大声をあげて攻撃するふりをして、だまされて城の下まで攻め込んできた的に攻撃を仕掛けます。
火炎地獄作戦…城のそばの谷に端を渡して攻めて来た敵に、松明を投げつけ、さらには水鉄砲でナント油をかけて橋を炎上させたそうです。