朝日新聞出版、マンガ日本史「白虎隊」。
1868(慶応4)年、
会津藩士たちは、名誉をかけて戦い、
その戦いで、会津に根付く武士道を貫こうと、
幾人もの少年たちが、自らの手で命を絶ちました。
それが、「白虎隊」です。
会津藩の子供たちは、幼い頃から、武士になるための教育を受けていました。
10歳になると、藩校である「日新館」に入学し、
学問とともに、日新館の心得を身につけて、立派な会津藩士になれるように励みます。
幕末の頃には、軍事力強化のため、
年齢別に分けられた主力軍がありました。
玄武隊 55歳以上
青龍隊 36~49歳
朱雀隊 18~35歳
白虎隊 16、17歳
1862(文久2)年、会津藩9代当主・松平容保が幕府の命を受けて、京都守護職に就任し、
藩士たちは、朝廷と京の町の治安を守るため、任務に励み、
孝明天皇からあつい信頼を受けるようになりました。
1867(慶応3)年、王政復古の大号令で、
15代将軍・徳川慶喜が政治の実権を失っても、
初代藩主が決めた幕府に忠誠を尽くすという「家訓」を守り、
慶喜を支え続けるのですが、
この結果、朝敵という汚名を受けることになってしまいます。
追討令を受けた会津藩は、許しを乞う手紙を何度も、朝廷に送るのですが、受け入れてもらえず、
ついに会津藩に新政府軍が攻め込んできます。
前線に出撃した白虎隊は、
折からの暴風雨に耐えながらの、苦しい戦いを続けながらも、
鶴ヶ城に戻ろうと、城を目指し、なんとか城下が見える飯盛山に辿り着くのです。
しかし、そこで彼らが見たものは、
火の海と化した城下と、黒煙に包まれた鶴ヶ城でした。
これをみた隊士たちは、城が燃えて落城したと落胆し、
潔く命を絶とうと、全員が自刃してしまうのです。
「白虎隊」には、思い入れがあります。
30年も前ですが、ジャズダンスのカンパニーに所属していた頃、
「白虎隊」をモチーフした作品を何度も踊りました。
懐かしい思い出です。
私は、右から3番目です。