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朝日新聞出版、マンガ日本史「板垣退助」。
板垣退助は、天保8年4月17日(1837年)、土佐藩上士乾正成の嫡男として
高知城下中島町に生まれました。
乾家は武田信玄の重臣であった板垣信方を祖とした家柄だったそうです。
戊辰戦争では土佐勤王党の流れをくむ隊士を集めた迅衝隊総督として土佐藩兵を率い、
東山道先鋒総督府の参謀として従軍。
新政府が設立されると、参議として参加しますが、
薩摩藩・長州藩の出身者のみが実権を握る「藩閥政府」に嫌気がさして辞め、下野してしまいます。
そして、すべての人々が「自由」と「権利」を得られる「自由民権運動」を開始していくのです。
1889(明治22)年、大日本帝国憲法が発布され、
翌年には第一回衆議院議員総選挙が行われ、
「憲法を制定し、民衆から選ばれた議員で政治を行う」ということが、実現したのです。
明治の政治家は、大変だったようで、常に生命の危険にさらされていました。
板垣退助も例外でなく、3度も命を狙われます。
しかし、自らの命を狙った岐阜遭難事件の犯人である相原尚褧に対して、
特赦嘆願書を明治天皇に提出した結果、
相原は特赦となって改心し、相原は退助に謝罪に訪れたそうです。
家屋敷を売り払い、私財を擲って自由民権運動に身を投じたため、
晩年は金銭的に困窮し、☎代も払えず、
電話機を取り外されてしまうこともしばしばあったそうです。
明治天皇から、直々に爵位を賜るような身分だったのに…。
※関係ない話ですが…。
日本人の心ともいうべき「演歌」ですが、
実はこの演歌は「自由民権運動」によって生まれたものなんだそうです。
「演歌」とは「演説歌」の略で、政治に対する意見や批判を歌にしたものだったそうです。
板垣退助さんといえば、やはり、これ。
子供の頃は使っていました。
懐かしいですね。
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