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朝日新聞出版、マンガ日本史「田中正造」。
日本初の公害と戦った庶民の味方、田中正造。
幕末の1841(天保12)年、下野国阿蘇郡小中村(栃木県佐野市)の農家に生まれた田中正造は、
17歳で父の後を継ぎ、名主となって村民をまとめました。
この名主時代に、最初の戦い~村一帯を支配していた領主の悪政ををただす~
を、農民とともに起こすのですが、正造は捕えられ投獄されてしまいます。
その時の牢は、縦、横、高さがわずか90センチしかない狭いものだったそうです。
その後、江刺県花輪支庁(秋田県)の役人となったそうですが、
今度は、無実の罪で投獄されてしまいます。
板垣退助の自由民権運動が起こると、この運動に参加。
1880(明治13)年に栃木県会議員に選ばれます。
ですが、ここでも、栃木県令(知事)の悪政に対し抗議運動を起こし、
またも投獄。
牢に入ってばかりですね。
1890(明治23)年には、第一回衆議院議員総選挙に当選。
今度は、足尾銅山の鉱毒被害に関心を持ち、取り組んでいきます。
急激な発展を遂げた足尾銅山で採掘された銅は、海外にも輸出され、日本に膨大な利益を持たらしていたのです。
ですから日本政府とっても足尾銅山は大切な産業で、操業を停止するわけにはいかなかったのです。
銅山から流れ出る有害物質を含んだ煙と、また燃料調達のための伐採で、
周囲の山々ははげ山となり、
雨のたびに、土砂を渡良瀬川に流し込み、大洪水を起こしました。
また、鉱山から出た鉱毒を含む廃棄物も、渡良瀬川に捨てられ、川を汚染し、
川から生き物は姿を消します。
そして、さらに洪水のたびに毒をふくんだ川の水が広がり、
田畑を不毛な土地に変え、人体にも被害を及ばしました。
田中正造は、何度も質問書を提出しましたが、
耳をかさない政府に愛想を尽かし、議員を辞職。
そして、その2ヶ月後、被害状況を明治天皇に直訴しようとしましたが、失敗。
が、そのおかげで、足尾銅山の鉱毒被害に日本中の若者が注目するようになりました。
当時、15歳だった石川一(啄木)は、新聞配達で稼いだお金を、
義援金として足尾鉱毒被災地に送ったそうです。
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Last updated
2016.10.11 22:35:20
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