|
カテゴリ:読書
![]() 朝日新聞出版、マンガ日本史「乃木希典(のぎまれすけ)」。
1849(嘉永2)年、乃木希典は、江戸で長州藩藩士の子として生まれました。 幼い頃は、体も弱く、泣き虫で、いじめられた時は妹に助けてもらっていたそうです。 両親は、強い子に育てようとスパルタ教育。 父は、雪の降る中、何時間も裸足で剣の稽古をさせたり、 母は、好き嫌いをなくそうと嫌いなニンジンを毎日おかずに出したり、 また、強い心を持たせるため、雷のなる土砂降りの中を、七夕の笹を取りに行かせたりしたそうです。 厳しいご両親ですね。 その後は、立派な武士になるために励み、 18歳の時に、第2次長州征伐で出征し、幕府軍と戦い、初陣を飾ります。 明治になると、陸軍に入隊。 23歳の若さで、陸軍少佐に抜擢されます。 その後も、西南戦争に参戦し、陸軍中佐になり、順調にキャリアを積んでゆきます。 1894(明治27)年、日清戦争が始まると、旅順の攻略命令を受け出征。 わずか1日で旅順を陥落させるという神業を。 陸軍中将に昇進し、下関条約で日本が得た台湾を統括する台湾総督に就任します。 1904(明治37)年、日露戦争が始まると、司令官に抜擢され、 旅順要塞の攻略の任務を受けて、再び旅順へ。 しかし、以前と違い、コンクリートで固められた近代的な軍事要塞は、堅固でなかなか落ちなかったのです。 そこで有名な203高地の攻撃に目標が変わるのですね。 苦戦を強いられましたが、なんとか203高地を占領し、 その高台から、旅順港内へ、正確な砲撃を開始し、旅順艦隊をを撃破。 大国ロシアを破った日本は、欧米列強国と肩を並べる一等国になったのです。 しかし、日露戦争には、110万人の兵士が動員され、死傷者は20万人を超えたのです。 凱旋した乃木は、これを悔いて、多大な犠牲の責任を取りたいと、明治天皇もとに参内し、死を賜りたいと願い出るのですが、 明治天皇は許しませんでした。 「死ぬなら、私が、この世を去ってからにしなさいと。」 1912(明治45)年9月13日、明治天皇を送る大喪の礼が行われました。 この日、乃木希典は、自宅にこもり、夫人とともに自刃。 64歳の生涯の幕を閉じました。 ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.10.21 18:48:51
コメント(0) | コメントを書く
[読書] カテゴリの最新記事
|