朝日新聞出版、マンガ日本史「小村寿太郎」。
小村寿太郎は、1855(安政2)年、日向国(宮崎県)の飫肥(おび)藩士の家に生まれます。
子供の頃から、とても優秀だったようで、
7歳で藩校の振徳堂に入学、
16歳で、「成績優秀な者」として、藩の推薦と負担で、大学南校(今の東大)に入学、
21歳で、文部省の留学生として、アメリカのハーバード大学へ。
そこで、法律を学び、英語やフランス語などの語学も見につけます。
すごい学歴ですね。
帰国して、司法省を経て外務省に入りますが、
外務大臣・陸奥宗光にその頭脳と語学力を認められ、
清の臨時代理公使に抜擢され、
その後、アメリカ、ロシア、清の公使を経て、外務大臣に。
1905(明治38)年、「ポーツマス」条約~日露戦争の講和条約~で、
ロシアから十分な賠償金を取れなかった日本に不満を持つ民衆が起こした日比谷焼き打ち事件の責任をとる形で、
第一次桂太郎内閣が総辞職すると、
小村寿太郎も外務大臣の任を解かれ、駐英大使として、ロンドンへ。
その後、第二次桂太郎内閣が組閣されると呼び戻され、
再び外務大臣に就任し、本格的に不平等条約の完全撤廃に取り組みます。
そして、1911(明治44)年、アメリカと「日米通商条約」を結び、
その後、すべての列強国との条約を改正していきます。
江戸幕府が結んだ「日米修好通商条約」が、53年の歳月をもって、改正されたのでした。
条約改正を達成した9ヶ月後、小村寿太郎は、病のため、この世を去ります。
享年57歳。
結核にかかっていたのですが、病をおして、条約改正のために、命をかけた人生でした。