流れていく。
私も、昨日、そして明日も、あの中の一員として、駅に吸い込まれ、感情を押し殺して、時間だけを気にして、憂鬱な気分だけは押し殺して、風通し悪く、通勤する。
そういう人たちを第3者的に、喫茶店から眺めていると愉快だ。
毎日、乗る電車や、乗る場所を変えてはいるのだが、屁のつっぱり程度。
先週の今日は、どこか優越感を持って電車に乗っていた。今からアナタガタ会社、今からワタシ海外旅行、ちょっと嫌な自己顕示欲。アンキューソーマッチ。
穴があったら入りたい。
「北京ヴァイオリン」観たら、思いがけず感動したのだが、アジア系ほんわかしんみり系に感動最近するというのは、弱っているのかしらん。
人間、最期を悟ったら好きなことしたいし、させてあげたいかな。
以前のインドでの文章を再掲。
彼の師匠が死ぬことになった。最期に近い頃の彼の写真を見せてもらった。大きな木の下でそれはころがっていた。そこにあった。土まみれで自然に還って行く無駄のない肉体があった。それは大木が地表に出た根っこの一つの様であった。彼は死ぬ3時間前に簡素な言葉で遺言を残したという。「私は死ぬ。葬儀は簡素に。借金なんかはするな。でも葬儀方法は妻のやりたいことを最優先させてやってくれ」そういって彼は戻っていったそうである。なんてダンディな奴なんだ。「ダンディズムとはデカダンスにおける最後の英雄的光景だ」とボードレールは語った。意味を間違えても、彼の最後に近い一枚の写真を見て、生きざま、そしてそれ以上に、死にざまを感じさせてくれる者は、明白にいうとダンディだと思う。
亡骸の前に、連れ添って生きてきた妻は、音楽を奏でながら踊るように見えたという。ヒンドゥには墓がないと思っていたが、埋められた所に石を置く。日本でいう墓の概念とは違うのだろうか。「この抜け殻である肉体は土でさらし、雨に打たせよ」という台詞が似合いそうな気がした。
不謹慎で冷たい言い方かも知れないが、人間は生死を大袈裟に考えすぎなのだろうか。
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