伊賀の蜜謀果てしなく 徳川御用金 10
浮説 伊賀の蜜謀消えた徳川御用金 10 伊賀の蜜謀果てしなく 鴻巣から 徳川御用金を積んだ三隻の汚穢船は利根川を下り、堀を経て、大川へ出、日本橋北鞘町の銭屋七兵衛の店の裏口に寄せると、船はすっと屋敷の下に潜り込んで消えてしまった。伊賀の忍び大工の作った舟口であった。 既に、銭屋七兵衛の店には四谷を引き払った伊賀の忍鴉組が集結していて、汚穢船を待っていたのだった。 黒破多呂兵衛の動きは素早かった。 翌朝、明け六つ前には銭屋七兵衛の店の裏口から次から次へと千両箱の中身を 酒樽や醤油樽に積みかえた小舟がひっきりなしに出ていった。 全国の有力な藩にも、隠れ家が手配されていて、忍鴉組の者が二人一組二千両を抱え、各藩に散ったのである。 徳川御用金は、こうして、伊賀忍鴉組の手によって、日本の全国に分散されてしまったのだった。 江戸から明治になり、黒破多呂兵衛は銭屋七兵衛の店の看板を黒鴉探偵事務所という名に替えた。 まだまだ、混沌としている明治政府にとっては政治の裏に張り巡らされた諜報活動は欠かせない武器であったのだ。 黒破多呂兵衛は全国に散らした情報網も酷使して情報を集めた。 黒鴉探偵事務所の情報量の豊富さと正確さ速さは明治政府を支える政治家たちにとっては無くてはならぬ者になっていた。 さらに、黒破多呂兵衛は徳川御用金の豊富な資金を使い、K資金という闇の資金を ちらつかせて、政治の中枢に力を持つようになったのだ。 世の中が安定すれば、黒鴉探偵事務所の出番はなくなる。黒破多呂兵衛は常に政治が不安定であるように仕組むためにK資金は使われたのだった。 国会議員や、首相、幹事長になった大物政治家もこのK資金の世話になった者は多い。 世の中を不安定にし、諜報活動が重要であり続けるために、ある時には右翼に近づき、ある時には共産主義者の懐に潜り込み、あり時にはやくざ組織にも密偵を送り込み、地域紛争があれば潜り込み、過激なデモ隊に、様々な運動体に、K資金がどこからともなく運ばれてきたという。 伊賀の忍鴉組を永遠に継続し、日本国の裏で、日本国を動かすという遠大な蜜謀であったのだ。 伊賀の蜜謀は現代社会の奥底でまだ蠢いているのかもしれない。 江戸末期には俳人松を芭蕉をつかって、東北、山陰地方の大名の情報を集めたし、日本全国を歩いて測量し、大日本沿海輿地全図を完成させた伊能忠敬もまた、伊賀の情報収集の足となっていた。両名とも、莫大な金を必要とした旅であり、伊賀の組織から資金が提供されていたというのはあり得る話である。 日本橋の裏手に大きなビルの間に挟まれれて陽の当たらない蔦の絡まる二階建ての古い建物がある。 木片に黒鴉探偵事務所と書かれた古い木片の看板がぶら下がっている。誰も訪ねてきそうもない暗い事務所だが、政府高官、公安関係者、総会屋などが密かに出入りしている この探偵事務所こそが、日本中の裏の機密事項、秘密を握っているのだ。 全国の主要都市に、黒、破、鴉、伊賀、忍、などという文字が絡んだ探偵事務所があれば、その事務所は皆、日本橋の黒鴉探偵事務所の細胞機関なのである。 伊賀の衆たちは今なお日本の中枢に影響を与える諜報機関として生き残っていたのである。 彼らの組織のどこに徳川の御用金が隠されてるのかはいまだに謎である。 お終い 朽木一空