小塚原(こずかっぱら)刑場 仕置き場
江戸ぶら 仕置き場、小塚原(こずかっぱら)刑場 ご隠居と彦五郎吉原大門を潜り衣紋坂の坂を上り、八丁土手へ出て、吉原の喧騒を後にして、日本堤を歩かずに、浅草山谷町の方へ足を進めた。 「ご隠居、こんな暗くなってどこへ行こってんですかい、」 「浅草新町、車善七の長屋と溜、吉原の廓ときたら、どうしてももう一か所廻らねえと気が済まねえな、まあ、ついてきな、『八百善』というわけにはいかねえが、山谷じゃあ人気の『三途屋』という一膳めし屋で一杯呑みながら腹ごしらえしようじゃねえか」 棒鼻とも呼ばれる、宿場町の一番外れにるが、旅籠とは様子が違い、貧しい行商人や旅人、無宿人が泊まる木賃宿(雑魚寝の安宿)が建ち並んでいた。 二人はそんな山谷町の突き当りを左に折れたところにある三途屋という一膳飯屋の縄暖簾を潜った。 「なんだが、薄気味悪い妙な名前の店ですな、、、」 「この先にゃあ、小塚原(こずかっぱら)の仕置き場があるんだよ、まあ、それをもじって三途屋なんて洒落た屋号にしたんだろうがな、飯もおかずも旨いんだそうだ、まっ一杯飲もう」 「まさか、ご隠居これから、そんな怖い所へ行こってんじゃねえでしょうね、 怖いものなしの駕籠舁きでさえ、~雲助(くもすけ)も避けて通れぬ小塚原~という川柳があるほど、不気味な場所だ、あっしは御免ですよ、、」 「彦五郎、まあ話だけなら怖くもねえだろうよ、飲みながら聞いてみな」 日光街道を右に折れると木賃宿が軒を並べている小塚原町にで、山谷の方に足を進めると、思い川が流れ、泪橋という橋が架かっていてその橋の向こうが小塚原(こずかっぱら)刑場であった。 ~思いの川に泪の橋が架かる~何とも哀愁を感じさせる名の場所でもあるんだが、、、 斬首される罪人も今生の別れに涙しつつ「泪橋」を渡ったという、また身内の者は涙ながらに別れを告げた場所なので、泪橋と名付けられたという。 その泪橋を渡ると、右手に笹が生い茂っていて、その奥に浅草のはりつけ場があった。そこが江戸幕府の小塚原(こずかっぱら)の刑場であった。 小塚原刑場では、磔刑・火刑・梟首(獄門)が執行され、腑分けも行われた。 間口60間奥行30間1800坪もある広い敷地であり、江戸幕府が滅びるまでの約220年の間、小塚原刑場で処刑された罪人だけではなく、小伝馬町牢屋敷で死罪となった罪人も合わせて埋葬する場所であった。夥しい数の罪人の骸は、敷地内の至るところに無造作に埋められ続けてきたという。 罪人のお仕置きは公事方御定書による作法が決めっれていて、埋葬は許されず、まして墓などは御法度で、遺体は取り捨てとされ、適当な場所に転がされ、仕置き場非人が申し訳程度に土を被せる程度ですまていた。 風雨によって洗われ、顔や手肢が土中より露れ出ることも珍しくなく、あたりには絶えず死臭が漂い、夜になると死肉の臭いに誘われた野良犬や鼬(いたち)などの野生動物が、墓暴きにやってきて死体を貪り食うという、生き地獄さながらの光景が広がっていたのだった。 その 屍体 の数たるや年間1,000体(江戸時代を通して20万人とも云われている)を超えると云われている。 ただでさえ首を刎ねられたり、鋸挽きなどにされたりした 屍体 である。挙げ句、死んだ後もろくな埋葬もされず、獣にその肉を啄(つい)ばまれたとあっては、いくら罪人であってもあまりにご無体な話だった。 無念の罪人は ~今までに盗みし金は身につかず 身につくものは今日の一太刀~と嘆いた。 浅草裏の男の天国の吉原遊廓と、地獄の小塚原とは指呼の間(しこのかん)なので、小塚原刑場の刑死者の 屍体 取り捨て場からの臭気は夏場など風向では吉原まで漂い、吉原の廓内では一日中線香を焚いていることもあったほであった。 「ご隠居、幕府の刑罰は残酷でございますね、野良犬や鼬(いたち)に食われたんじゃ どんな悪党だって成仏できやしませんね、」 「そうだろうな、小塚原(こずかっぱら)はな、骨が原(こつがはら)がなまったんだとも云われてるんだよ、 あまりにも 無慈悲なので、本所の回向院が、小塚原仕置き場の傍らに刑死者供養の為に作ったお寺(お堂)を建てたのが常行庵だ、それが千住小塚原回向院の始まりなのだよ。小塚原の刑場の片隅にも刑死者を弔うために延命地蔵も建ってるよ、 極悪人のみならず、すりや窃盗などの死罪とする程でない者や、図られて罪を被った者、身に覚えがなくて罪人にされ首を刎ねられた者たも多くいたにちがいない。そんな罪人の魂を慰めるように、お地蔵様は穏やかに微笑んでいるのだ。その地蔵さんが、いつしか「首切り地蔵」と呼ばれ、残された者たちの心の拠り所となったたのだよ、」 追記、 杉田玄白、前野良沢らが小塚原の刑場で、死刑囚の腑分けを見学し、『ターヘル・アナトミア』の図の正確さに驚愕し、 翻訳にとりかかり、解体新書を完成させた。首切り地蔵様は其の腑分けも見守っていたのだろうか、、 ~小塚原(こずかっぱら)刑場に取り捨てられた罪人たち~ 鼠小僧 夜嵐お絹、高橋お伝、片岡直次郎、腕の喜三郎、相馬大作、磯部浅一、中村太郎、雲井竜雄、柴田市太郎、 吉田松陰、橋本佐内、桜田門外の変の関係志士 安政の大獄の関係志士などその他多数、、、 松下村塾の門下生が夜陰に乗じて吉田松陰の遺体を掘り起こし、長州藩の大夫山(現松蔭神社)に運び密かに埋葬したという俗説もある。 首を洗って過ごしましょうか、、、、笑左衛門