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カテゴリ:憂我なる<FRENCH LIFE>
DVD『想い出のサンジェルマン』 【原案】 ボリス・ヴィアン「サンジェルマン・デ・プレ入門」 【監督】:ジャック・バラティエ【撮影】:エチエンヌ・ベッケル ジャズとシャンソンが出会う街、サンジェルマン・デ・プレに過ぎし日々ー ナチスによるパリ占領やその開放により、戦争から解放された人々が自由を謳歌した40年代のパリ6区のサンジェルマン・デ・プレ。ジャズにわき、ジャン=ポール・サルトルやシモーヌ・ド・ボーヴォワール、アルベール・カミュら実存主義者たちがナチス占領下のパリでサンジェルマン・デ・プレに避難場所を求め地下酒場で気炎をあげ、多くの知識人、文化人、ジャーナリストたちを巻き込んで、打倒ファシズムの原動力になっていた。サンジェルマン・デ・プレは自由を愛する者の集まる聖地であった! サンジェルマン・デ・プレ40年代の「うたかたの日々」。その中心地は穴蔵酒場「タブー」。その仕掛け人は”ルネッサンス・マン(万能の人)”ボリス・ヴィアン!1947年、17世紀に造られた地下貯蔵庫(カーブ)を改造して、プライベート・クラブを開店しサンジェルマン・デ・プレを流行の街に仕立てあげたのであった。この店には当時の有名人たちが毎晩のように集まり、飲めや歌えの大騒ぎがくりひろげられていた。タブーには、支配人もいなければ、部屋に敷き詰められた高級絨毯も、夜会服もなかった。ダンスホール全盛の時代。ジャズが聴けるというだけでも珍しく、しけた椅子と机だけがおかれた、がらんとした穴蔵だったけれどもそのそっけなさが受けた。タータン・チェックのシャツにバスケット・シューズといういでたちのエクジスタンシャリスト(実存主義者)と呼ばれる若者(穴蔵のどぶネズミとよばれていた)ばかりが、毎夜、ボリスヴィアンのトランペットに浮かれて踊っていた。 -エド・ヴァン・デル・エルスケン(ED VAN DER ELSKEN)-「セーヌ左岸の恋(LOVE ON THE LEFT BANK)」 ヴィアンは十代の頃から熱烈なジャズ・フリークであり、兄弟たちとジャズ・バンドをはじめ、トランペットに夢中になった。22歳の頃にはクロード・リュテというクラリネット奏者の楽団に入ってジャズに興じた。彼の演奏は十分プロとしてやっていけるくらいでこの映画でも再三、トランペットの演奏シーンが観られる。1949年さらにヴィアンは、もう一つのカーブ「クラブ・サン・ジェルマン」を開店、チャーリーパーカー、マイルスディヴィス、シドニー・ベシェらが素晴らしい演奏を繰り広げられていたのだった。こんな、カーブの喧騒に満ちた風景と、ロックに取って代わられた60年代の同地区と対比させながらつづったジャック・バラティエ監督のドキュメンタリー作品です。戦後のパリの穴倉で、飲んで、踊って、愛し合う…パリの才人、芸術家が集まるサンジェルマン・デ・プレの最も活気に溢れていた時代の当時の映像で構成された貴重なドキュメンタリー。サルトル、ボーヴォワール、カミュ、メルロ=ポンティ、コクトー、ピカソ、クノー、プレヴェール、ツァラ、ブルトン、アルトー、ジュネ、グレコ、バディム、エリントン、マイルス…そしてヴィアン!ジュリエット・グレコは、マイルス・デイヴィスのロマンスも、サンジェルマン・デ・プレ、それは魂の村。戦後のパリを彩ったサン=ジェルマン=デ=プレの狂躁の日々が甦る。 -エド・ヴァン・デル・エルスケン(ED VAN DER ELSKEN)-「セーヌ左岸の恋(LOVE ON THE LEFT BANK)」 「脱走兵」 大統領閣下 お手紙を差上げます 時間があれば 読んでいただけるでしょう 私は今 令状を受取りました 水曜日の夜までに 戦地に発て、と 大統領閣下 私は 戦争はしたくありません 可哀相な人たちを殺すために 生まれてきたからではないからです 閣下を 怒らすつもりはありません 閣下に 申し上げなければなりません 私は決心しました 脱走しよう、と 生まれてから 私は 父の死をみて 兄弟たちが出征するのをみて 子供たちが泣いているのをみました 私の母は ひどく苦しみ 今では墓の下にいます 爆撃も気にせずに ウジ虫も気にせずに 私が捕虜だったとき 私の妻を盗まれ 私の魂を盗まれました それに 私のいとしい過去のすペてを 明日の朝早く死んでしまった歳月に 門前払いをくわせるつもりです 私は旅に出ます フランスの道端で 物乞いをして暮します ブルターニュ地方からプロヴァンス地方まで 私は人々に訴えます 服従を拒むんだ 戦争を拒むんだ 戦争にいってはいけない 出征を拒むんだ 血を流さなければいけないのなら あなたの血をどうぞ 閣下は 偽善者ですね 大統領閣下 私を追跡するのなら 憲兵たちに伝えて下さい 私は何の武器ももっていないことを そして 撃ち殺して構わないということを 『墓に唾をかけろ(J'irai cracher sur vos tombes)』(1946年) 監督:ミシェル・ガスト 脚本:ボリス・ヴィアン 撮影:マルク・フォサール 音楽:アラン・ゴラゲール 出演:アントネラ・ルアルディ/クリスチャン・マルカン/ポール・ゲール/フェルナン・ルドー/ルナート・ウエール ボリス・ヴィアンがアメリカ人黒人作家ヴァーノン・サリバン作として発表した小説が原作。この偽名で売れる小説としてアメリカンポルノを3週間で書き上げる。外見は白人にしか見えないが、その実は黒人の子である主人公の無軌道な日々と、白人のセックス・フレンドたちに自らのルーツがばれてしまい、殺人を犯すまでを描いたスキャンダラスな物語。これが爆発的に売れ、スキャンダルとなり発禁。訴訟にまでなり、公然猥褻罪により10万フランの罰金刑。 ボリス・ヴィアンの肩書きを並べてみると… エンジニア技師、家具デザイナー、自動車修理工、自動車レーサー、映画俳優、画家、ナレーター、ジャズ・トランペッター、音楽評論家、文芸評論家、ジャーナリスト、SF研究家、DJ、イベント・オーガナイザー、音楽プロデューサー、レコード会社のディレクター、作詞作曲家、歌手、詩人、小説家、映画監督、オペラ・バレエ・演劇・映画の脚本家、翻訳家、ペテン師、遊び人(サンジェルマン・デ・プレのプリンス)、反権力思想煽動家。数多くの顔を持った男ボリス・ヴィアン。彼が動き回った軌跡はジャンルの壁を越えていた。ただ、ヴィアンは、「私は実存主義者ではない。事実、実存主義者であれば実存は本質に先立つ。私にはその本質がないのだ」という発言にもあるように、サルトルの実存主義とは一線を引き、あらゆる主義、運動から自由であろうとしていたのです。 ルイ・マルは、映画「死刑台のエレベーター」が完成し、さて音楽をどうしようかというその時に、自身のクインテットを一旦解散したマイルス・デヴィスが単身パリに来ているという事を知り、友人であるボリス・ヴィアンに紹介を頼んだのでした。マイルスは49年5月に初めてパリへ渡り、ジュリエット・グレコと激しい恋に落ち同棲生活を送っていた。マイルスは映画の試写を見て「やる気」になり、当時「クラブ・サンジェルマン」で演奏していたヴァルネ・ウィラン以下4人をピックアップして録音する事になったのです。その録音もまた画期的なものでした、スタジオで映画の画面を流し、その画面を見ながら即興演奏し、録音していったのです。映画「死刑台のエレベーター」とマイルスの音楽との完璧なる一体化はこうして実現したのです。マイルスはこの時ジャンヌ・モローにひとめ惚れしてしまったという話です。 ヴィアンは長年心臓に欠陥を抱え、不整脈に苦しんでいた。トランペットを吹くことは心臓病を抱えたヴィアンには危険なことだったが、彼本人は意に介していなかった。むしろ自分で「40になる前に死ぬよ」と常々語っており、短命を予感していたようである。1959年6月23日の朝、論争の的になっていた『墓に唾をかけろ(J'irai cracher sur vos tombes)』の映画試写会のため、ヴィアンはシネマ・マルブッフの館内にいた。ヴィアンはプロデューサーと作品の解釈を巡り、何度も衝突してきた。そして、その日もエンドロールで流れる制作関係者名から自分の名を外したがったヴィアンは、この映画を公然と非難した。映画が始まって数分後、伝えられるところによると、ヴィアンはこのように口を滑らせたと言われている。「こいつらはアメリカ人になったつもりなんだろうか?馬鹿にしやがって!」 その直後、急な心臓発作に見舞われたヴィアンは座席に倒れ込み、病院へ搬送される途中に息を引き取った。彼は当時僅かに39歳であった。『日々の泡』、『北京の秋』などすぐれた作品を数多く書くが、アメリカ小説の翻訳と称する『墓に唾をかけろ』(46)を公表したことが筆禍をまねき、結局正当な評価を得ることなく短い一生を終えなければならなかった。しかし、死後数年して彼の文学はコクトー、サルトル、ボーヴォアールらによって再評価され、すべての作品が復刊されるとともに、戯曲の上演、劇作集、詩集、の刊行が相次ぎ、若い読者層から圧倒的人気を受けている。そして、この悲劇のヒーロー像が受け、68年に起きた「五月革命」の時に、若者たちに熱狂的に迎えられた。 「ぼくはスノッブ J'suis snob」 ぼくはスノッブ ぼくはスノッブ ぼくの気に入っている 唯一の欠点 みがきあげるのに何ヶ月 らくな稼業じゃないけれど ハイデガルドと出かけると 人目をひくのは ぼくの方 ぼくはスノッブ ぼくはスノッブ ぼくの友達も みんなそうさ ぼくらは スノッブいいもんだぜ オーディガンのシャツ ゼビュウ皮のくつ イタリア製のネクタイ 虫のくった古めかしい背広 指にはルビー 足の指だぜ! そいつがちがう 爪はまっ黒 小さくて イカしたハンカチ スウェーデン映画をみに 映画館にでかける ビストロに寄る ウィスキーもたんまりのめる 肝臓なんか悪くない そんなのは もう時代おくれ ぼくのは 潰瘍さ こいつは ザラにないし 高くつく ぼくはスノッブ ぼくはスノッブ 名前はパトリックだけど みんなにボブと呼ばれてる 毎朝 乗馬に通う あの馬糞のにおいがたまらない トロンボーンみたいな名前の 男爵夫人としかつきあわない ぼくはスノッブ とびきりのスノッブ 女を抱くときも 中庭ですっ裸 毎週 金曜日になると 友達みんなが集まって スノビズム・パーティ コーラもあるけど みんな大きらい カマンベール・チーズも 小さなスプーンで食べるんだ ぼくのマンションは サイコーに イカしてる ダイヤで暖房 これ以上の夢はない テレビもあるけど あんなのは退屈 後ろ向きにする 後ろなら夢中になれる ぼくはスノッブ ぼくはスノッブ その菌にすっかりイカれてる ジャガーで 事故をおこす 8月はベッドですごす こういう厳密なことで スノッブかどうかが きまるんだ ぼくはスノッブ さっきよりずっとスノッブ ぼくが死んだら ディオールの屍衣をかけてくれ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年02月15日 17時00分07秒
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